蔣欽(しょうきん) ※あざなは公奕(こうえき)

【姓名】 蔣欽(しょうきん) 【あざな】 公奕(こうえき)

【原籍】 九江郡(きゅうこうぐん)寿春県(じゅしゅんけん)

【生没】 ?~219年(?歳)

【吉川】 第055話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・蔣欽伝』あり。

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孫権(そんけん)の言葉に発奮して学問に励み、呂蒙(りょもう)ともども目覚ましい進歩を遂げる

父母ともに不詳。息子の蔣壱(しょういつ)は跡継ぎで、蔣休(しょうりん)も同じく息子。

194年、孫策(そんさく)が袁術(えんじゅつ)のもとに身を寄せたが、このころ蔣欽は孫策のそば仕えとなった。

やがて孫策が江東(こうとう)へ渡ると、蔣欽は別部司馬(べつぶしば)に任ぜられて兵を授かる。こうして孫策に付き従って3郡を平定し、続く豫章(よしょう)の平定にも加わった。

蔣欽は葛陽県尉(かつようけんい)に任ぜられ、3県の県長(けんちょう)を務める間に盗賊らを討ち平らげ、会稽西部都尉(かいけいせいぶとい)に昇進。

東冶(とうや)の呂合(りょごう)や秦狼(しんろう)らが反乱を起こすと、また蔣欽が兵をひきいて討伐にあたり、ふたりを捕らえて5県を平定した。

功により討越中郎将(とうえつちゅうろうしょう)となり、涇拘(けいこう)と昭陽(しょうよう)を封邑(ほうゆう)として与えられた。

208年、賀斉(がせい)が黟県(いけん)の反乱の討伐に向かうと、蔣欽も1万の兵を指揮して助力する。

215年、孫権の合肥(ごうひ)遠征に参加。このとき曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)の急襲を受け、渡し場の北で孫権が危機に陥ったが、蔣欽の力戦もあって事なきを得た。

功により盪寇将軍(とうこうしょうぐん)に昇進し、濡須督(じゅしゅとく)を兼ねる。

その後、蔣欽は都へ召し還されて右護軍(ゆうごぐん)となり、訴訟の処理を取り仕切った。

初め蔣欽が宣城(せんじょう)に駐屯していたころ、豫章の不服従民を討伐したことがあった。この間に蕪湖県令(ぶこけんれい)の徐盛(じょせい)が、留守を預かる蔣欽配下の役人を捕らえ、上表して斬刑に処そうとする。

しかし孫権は、蔣欽が遠征中だったことから、その役人を斬るのを許さない。これ以来、徐盛は蔣欽の報復を恐れるようになった。

217年、曹操が濡須へ進軍してくると、蔣欽と呂蒙が諸軍を指揮して迎撃にあたる。

ところが蔣欽は(私怨〈しえん〉を忘れ、)徐盛の優れたところをたたえたので、そのうち徐盛も彼に心服するようになり、論者の間にも蔣欽のよい評判が立ったという。

219年、孫権が劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)を討伐したとき、蔣欽は水軍をひきいて沔水(べんすい。漢水〈かんすい〉)へ進む。

だが帰還の途中で病死し、息子の蔣壱が跡を継いだ。孫権は喪服を着けて哭礼(こくれい)を行い、蔣欽の妻子に蕪湖の200戸と田地200頃(けい)を授けた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には、孫権が蔣欽の屋敷に立ち寄った際の話がありました。

このとき孫権は、蔣欽の母や妻妾(さいしょう)らが粗末な衣服を身に着けている様子を目にします。

孫権は、蔣欽が高位にありながら倹約を心がけていることに感動し、御府(ぎょふ。宮中で使用する衣服などを製作する役所)に命じて立派な品々と取り換えさせたのだとか。

また、蔣欽と呂蒙が孫権に諭されて、学問に励むようになったという逸話が、『三国志』(呉書・呂蒙伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』に見えています。

呂蒙が儒者をもしのぐ読書量で目覚ましい進歩を遂げ、後に魯粛(ろしゅく)を驚かせた話は有名ですけど――。実は蔣欽も同じように努力して、ふたりとも孫権から国士と評価されるに至ったのです。

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