劉惇(りゅうとん) ※あざなは子仁(しじん)

【姓名】 劉惇(りゅうとん) 【あざな】 子仁(しじん)

【原籍】 平原郡(へいげんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・劉惇伝』あり。

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卓越した占いの技術をもって「神明(しんめい)」とたたえられる

父母ともに不詳。

劉惇は騒乱を避けて廬陵(ろりょう)へ移住し、孫輔(そんほ)に仕えた。

孫輔は孫羌(そんきょう)の息子で、孫賁(そんほん)の弟。孫羌は孫堅(そんけん)の同母兄。孫輔の個別記事を参照。

劉惇は天文や占いに通じていたため南方一帯で名が知られ、水害や干害、賊徒の侵入があるときはよく時期を予言し、外れることがなかった。

孫輔はその才能を高く評価して軍師に任じ、軍中の者たちも「神明」と呼んで敬った。

204年、孫権(そんけん)が豫章(よしょう)にいたとき、星に異変が現れる。

孫権から尋ねられると、劉惇は「丹楊(たんよう)で災いがありましょう」と答えた。

さらに孫権が「どのような災いなのか?」と尋ねると、劉惇は「客が主人を圧倒するものです」と答えたうえ、知らせが届く日まで告げた。

やがて辺鴻(へんこう。辺洪)が反乱を起こしたとの知らせが、劉惇の言った日に届く。

204年、孫権の弟で丹楊太守(たんようたいしゅ)の孫翊(そんよく)が、側近の辺鴻に殺害される事件が起こった。孫翊の個別記事を参照。

劉惇は様々な方術にも通じていたが、特に太乙(たいいつ)の術に明るく、その要諦を究めていた。

また100余編の書物を著し、高名な儒者である刁玄(ちょうげん)の称賛を得るほどだった。

しかし、劉惇は自分の技術について何も語ろうとしなかったため、詳細を知る者もいなかったという。

管理人「かぶらがわ」より

前に採り上げた呉範(ごはん)と同様、劉惇も肝心な部分を明かしませんでした。

これは、他人に教えたところで理解できるようなものではないということなのか? それとも何らかのからくりがあったりしたのか?

まぁ、技術の中身が詳細までわからなかったからこそ、長く伝説として語り継がれてきたのでしょうけど……。

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