孫翊(そんよく) ※あざなは叔弼(しゅくひつ)

【姓名】 孫翊(そんよく) 【あざな】 叔弼(しゅくひつ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 184~204年(21歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫翊伝』あり。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の弟

父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。一名を儼(げん。孫儼)ともいう。

同母兄には孫策(そんさく)と孫権がおり、同母弟には孫匡(そんきょう)がいる。異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。妹?の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。息子の孫松(そんしょう)は跡継ぎ。

孫翊は勇猛果敢で、孫策に似たところがあった。

呉郡太守(ごぐんたいしゅ)の職務にあたった朱治(しゅち)によって孝廉(こうれん)に推挙され、司空(しくう)の役所から招かれた。

203年、偏将軍(へんしょうぐん)として丹楊太守(たんようたいしゅ)の職務にあたったが、このときまだ20歳だった。

翌204年、側近の辺鴻(へんこう。辺洪)に殺害され、息子の孫松が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、200年に急死した孫策の臨終の際、張昭(ちょうしょう)らは孫策に、兵馬の権を孫儼(孫翊)に託すよう進言したそうです。

しかし孫策は孫権を呼び、彼に印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を帯びさせたのだと。

張昭ら重臣の目には19歳の孫権より、さらに2歳年下の孫翊のほうが、江東(こうとう)の跡継ぎとしてふさわしいと映ったということ。それだけ孫翊が孫策に似ていて、孫権より頼もしく思えたのでしょう。

『三国志』(呉書・朱治伝)には、「もともと孫翊は性急なうえ容赦を知らない性格で、感情のままに振る舞っていた。しばしば朱治は彼を責め、道義を説いて教え諭した」ともありました。

孫翊が殺された後、妻の徐氏(じょし)が、孫翊の部将だった孫高(そんこう)や傅嬰(ふえい)らとともに夫のあだ討ちを果たしますが、この件は『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)およびその裴松之注に引く胡沖(こちゅう)の『呉歴(ごれき)』に見えます。

孫翊を宴席で殺害したのは辺洪でしたが、その裏には、かねて謀反を企む嬀覧(きらん)と戴員(たいうん)がいたわけです。

孫翊の殺害後、辺洪は山中に隠れましたが、ほどなく捕らえられます。嬀覧と戴員は辺洪に罪をかぶせて処刑しました。

部将たちは、事件の首謀者が嬀覧と戴員であると知りながらも、ふたりを問責するだけの力がなかったのだという。

こうして嬀覧は役所に居座り、孫翊の嬪妾(そばめ)や侍女に加え、徐氏までも自分の物にしようと考えます。徐氏は月末の法事を理由に時間を稼ぎ、この間に孫高や傅嬰らを呼び、嬀覧誅殺の助力を取りつけました。

やがて徐氏の使いから喪が明けたと伝えられた嬀覧が、のこのこと部屋を訪ねたところ、徐氏の声に応じて飛び出した孫高と傅嬰にあっさりと討たれてしまいます。ほかの者たちも時を移さず、別の場所で戴員も討ち取ります。

そして「この後、徐氏は再び喪服を着け、夫の墓前に嬀覧と戴員の首級を供えた。みなこの一件に驚き、人間業を超えていると称賛した」のだと。

「まもなく丹楊にやってきた孫権は嬀覧と戴員の残党を根絶やしにし、孫高と傅嬰を牙門将(がもんしょう)に抜てき。ほかの者にも金や帛(きぬ)を下賜し、その一族に功臣として別格の待遇を与えた」ともありました。

確かに貞女の鑑と言うべき良妻。さらに徐氏は占いが得意だったそうで、小説などでも使われそうなキャラクターです。

ただ嬀覧と戴員は、自分たちを孝廉に推挙してくれた呉郡太守の盛憲(せいけん)が孫権に殺された後、山中に隠れ住んでいたことがあり――。

その時期に孫翊から礼をもって招かれ、嬀覧は大都督(だいととく)として兵を指揮し、戴員は郡丞(ぐんじょう。丹楊郡丞)として行政にあたったという経緯がありました。

加えて辺洪は嬀覧や戴員と親しく、しばしば孫翊から責められてもいたため、謀反の機会をうかがっていたという状況でした。

嬀覧と戴員からみれば、孫翊の殺害は恩義ある盛憲のあだ討ちとも言えるわけで……。徐氏の美談も、単なる美談では片づけられないと思います。

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