陳登(ちんとう) ※あざなは元龍(げんりょう)

【姓名】 陳登(ちんとう) 【あざな】 元龍(げんりょう)

【原籍】 下邳国(かひこく)下邳県(かひけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第044話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂布伝(りょふでん)』に付された「陳登伝」あり。

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劉備(りゅうび)や劉表(りゅうひょう)から高く評価されるも、大志を果たせぬまま病没

父は陳珪(ちんけい)だが、母は不詳。陳応(ちんおう)は弟で、ほかにふたりの弟がいたという。息子の陳粛(ちんしゅく)は跡継ぎ。

陳登は誠実でさわやか、落ち着きがあって思慮深く、優れた計画を胸に秘めていた。若いころから、社会を立て直し、民を救済しようという志を持っていたという。また広く書物を読み、もともと文学的な才能もあったため、古典や文学作品をことごとく究めた。

陳登は25歳で孝廉(こうれん)に推挙され、東陽県長(とうようけんちょう)に任ぜられた。老人の面倒を見たり、孤児を養育するなど、民をよくいたわった。

この当時、世の中が荒れすさび、民は飢えに苦しんでいた。陳登は徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)の上表により、典農校尉(てんのうこうい)に任ぜられた。彼は土地に適した産物を調べて回り、水路も整備したので、稲が豊かに実るようになった。

197年、呂布の使者として許(きょ)へ行ったとき、曹操(そうそう)の意向で広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任ぜられた。このとき曹操から、内密に軍勢を取りまとめ、呂布に対処するよう命ぜられた。

広陵に赴任すると、陳登は賞罰を明確にし、広く威光を行き渡らせる。このため、海賊行為を働いていた薛州(せつしゅう)の1万余戸が帰順してきた。

赴任から1年も経たないうちに教化の成果が上がり、人々は陳登を畏怖(いふ)しつつ、敬愛するようになった。

翌198年、曹操が軍勢をひきいて下邳に到着すると、陳登は郡兵を指揮して曹操軍の先駆けを務めた。

このとき陳登の弟たちが下邳の城中にいたため、呂布は彼らを捕らえて人質とし、陳登に服従を迫る。しかし陳登は屈せず、日ごとに包囲を厳しくした。

呂布配下で刺姦(しかん。検察官)を務めていた張弘(ちょうこう)は後難を恐れ、夜中に陳登の3人の弟を連れて城から脱出し、陳登と合流した。

同年12月、曹操が呂布を誅殺すると、陳登は功によって伏波将軍(ふくはしょうぐん)に任ぜられた。

陳登は、長江(ちょうこう)や淮水(わいすい)流域の住民に人気があり、その心をよくつかんでいたため、江南(こうなん)を併吞しようと考えるようになった。

匡琦城(きょうきじょう)にいたとき、孫策(そんさく)の大軍が攻め寄せてきた。部下たちは、孫策軍が郡兵の10倍はいるのを見て、いったん城を空にして与え、長く留まれなくなった敵が退去するのを待つのがよいと主張した。

だが、陳登は城を捨てることを許さず、門を閉ざして守りを固め、自軍を弱々しく見せかける策を採った。そのうち好機をつかみ、自ら軍勢をひきいて急襲。混乱した孫策軍を大破し、万単位の敵兵を討ち取ることができた。

この大敗に激怒した孫策が、再度軍勢を送り込んできた。陳登は功曹(こうそう)の陳矯(ちんきょう)を曹操のもとへ遣わし、救援を要請。その間に城から10里ほどの場所に、いくつかの陣営を密かに造らせ、柴(シバ)や薪(たきぎ)を集めさせる。

夜を待って一斉に火をかけさせ、これに呼応するように城中で万歳を唱え、大軍が到着したように見せかけた。孫策軍は突然の火に驚いて壊滅状態となり、追撃を受けて1万の兵を失った。

その後、陳登が東城太守(とうじょうたいしゅ)に転ずると、広陵の官民は彼の恩徳を慕い、郡から抜け出してついていった。

陳登は自身の在任中、たびたび江南の軍勢の侵入を招いたことを振り返って述べた。

「幸いにして勝利を収めることができただけだ」

そして、みなをこう諭して戻らせた。

「私が去った後も、立派な主君が持てないと心配することはない」

その後、陳登は39歳で病死した。

やがて孫権(そんけん)が、長江の北まで支配するようになった。曹操は長江を前にすると、いつもため息をつき、陳登の計略を早く採用しなかったため、大きな猪(イノシシ。孫策と孫権の兄弟を指す)の爪牙を伸ばすことになってしまったと、残念がったという。

後に曹丕(そうひ)は陳登の功績を思い起こして称賛し、息子の陳粛を郎中(ろうちゅう)に任じた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の陳登についての記述はあっさりとしたもので、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『先賢行状(せんけんぎょうじょう)』のほうが、いくらか詳しく書かれていました。

また『三国志』(魏書・華佗伝〈かたでん〉)によると、「華佗は沛国相(はいこくしょう)だった陳珪による孝廉への推挙や、太尉(たいい)の黄琬(こうえん)からの任官の誘いを断った」ということです。

陳珪は陳登の父ですから、陳登も華佗と交流があったのでしょう。そういう関係もあるのか、この「華佗伝」には、陳登が華佗の治療を受けた話もありました。

それは陳登が広陵太守だったときにかかった病のことで、胸がつかえ、顔がてらてらして食事が進まないというもの。華佗は脈を診て、胃の中にいる虫が原因だと話し、煎(せん)じ薬を用いて吐き出させると、陳登の症状も治まりました。

ですが、これで話は終わらず――。

「華佗は陳登に言った。『この病は3年後にきっと再発します。でも、そのとき腕の良い医者がいれば、お救いすることができましょう』」

その言葉通り、3年目に陳登の病が再発。ところが、このときには華佗がいなかったため、陳登は亡くなってしまったのだと。ただ、陳登が亡くなったというのが何年のことなのか、はっきりしないのですよね……。

ほかにも劉表が、「元龍(陳登のあざな)の名声は天下に鳴り響いている」と言ったとありました。さらに劉備も、「元龍のような、文武両道を兼備し、何者も恐れぬ勇気と志を持った人物は、古代にしか見当たらない」と言っていたりと、とにかく高評価。

もう少し長く活躍できていたら、と思わせる人物です。病が再発したときに華佗がいなくて残念でしたね。

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