雍闓(ようかい)

【姓名】 雍闓(ようかい) 【あざな】 ?

【原籍】 益州郡(えきしゅうぐん)

【生没】 ?~225年(?歳)

【吉川】 第263話で初登場。
【演義】 第086回で初登場。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫権(そんけん)と結んで蜀(しょく)の支配に抵抗

父母ともに不詳。雍歯(ようし)の末裔(まつえい)ともいう。

雍歯は漢(かん)の汁防粛侯(じゅうぼうしゅくこう)。『漢書(かんじょ)』(高恵高后文功臣表〈こうけいこうこうぶんこうしんひょう〉)には、趙(ちょう)の将軍として高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)に後れて従い、諸侯の平定に功績があったと記されている。

雍闓は益州郡の豪族だったが、蜀の支配に不満を抱いていた。そこで、223年に劉備(りゅうび)が崩ずる前に反旗を翻す。

牂牁太守(そうかたいしゅ)の朱褒(しゅほう)や越嶲(えっすい)の異民族の王である高定(こうてい)も、雍闓の動きに続いた。

初め益州の中に益州郡が置かれていた。紛らわしいので注意が必要。

雍闓によって益州太守(えきしゅうたいしゅ)の正昂(せいこう)が殺害されると、代わって張裔(ちょうえい)が赴任した。

しかし、すでに呉の孫権と誼(よしみ)を通じていた雍闓は張裔を捕らえ、その身柄を孫権のもとへ送る。孫権は雍闓を永昌太守(えいしょうたいしゅ)に任じた。

225年3月、蜀の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が南征に乗り出す。雍闓は蜀軍が成都(せいと)を発った後、高定の部下に殺害された。

諸葛亮は、益州・永昌・牂牁・越嶲の4郡を平定し、12月には成都に凱旋(がいせん)。

益州郡は建寧郡(けんねいぐん)と改められ、建寧と永昌の両郡から一部を分けて雲南郡(うんなんぐん)が新設され、別に建寧と牂牁の両郡から一部を分けて興古郡(こうこぐん)が新設された。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)などによるものです。

このほかにも『三国志』(蜀書・呂凱伝〈りょかいでん〉)には、劉備の死後に不穏な動きを見せていた雍闓に、蜀の都護(とご)の李厳(りげん)が懇々と利害を説く手紙を送ったことが見えています。

このとき雍闓は「天にふたつの太陽(天子〈てんし〉の意)はなく、地にふたりの王はいないと聞いている」と述べたうえ、それなのにいま天下に三国が鼎立(ていりつ)しており、我々のような者は恐れと不安のあまり、誰に従ったらよいかわからないのだ、という趣旨の簡単な返書を送っただけだったという。

南中(なんちゅう)の豪族といってもそれなりの学識を備えていたようで、雍闓は李厳の説諭を素直に受け入れませんでした。

呉と結んで蜀に抵抗するのが、本当によい方法だったのかはわかりませんが、もともと南中に勢力を張っていた雍闓なので、蜀の統治方針に不満を抱くのも無理はないですね。

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