劉焉(りゅうえん) ※あざなは君郎(くんろう)

【姓名】 劉焉(りゅうえん) 【あざな】 君郎(くんろう)

【原籍】 江夏郡(こうかぐん)竟陵県(きょうりょうけん)

【生没】 ?~194年(?歳)

【吉川】 第005話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉焉伝』あり。

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天子(てんし)の気に誘われて益州(えきしゅう)へ

父母ともに不詳。劉範(りゅうはん)・劉誕(りゅうたん)・劉瑁(りゅうぼう)・劉璋(りゅうしょう)という4人の息子がおり、跡を継いだのは劉璋。

劉焉は前漢(ぜんかん)の魯恭王(ろのきょうおう。景帝〈けいてい〉の息子の劉余〈りゅうよ〉)の後裔(こうえい)にあたる。後漢(ごかん)の章帝(しょうてい)の元和(げんわ)年間(84~86年)に竟陵に移封され、この地に分家が居を定めた。

劉焉は若いころから州や郡に出仕し、帝族として中郎(ちゅうろう)に任ぜられたが、師の祝恬(しゅくてん)が死去すると喪に服すため官を辞した。その後は陽城山(ようじょうざん)に住み、学問に励む一方、人々にも教えを施した。

やがて賢良方正(けんりょうほうせい)に推挙され司徒(しと)の幕客となり、洛陽県令(らくようけんのれい)、冀州刺史(きしゅうのしし)、南陽太守(なんようのたいしゅ)、宗正(そうせい)、太常(たいじょう)を歴任した。

188年、劉焉は政治が乱れ帝室が多難であるのを見て、次のような考えを述べた。

「刺史や太守らは賄賂(わいろ)を使って官職に就き、民を虐げ朝廷への離反を招いております。清廉との評判が高い重臣を選んで州牧(しゅうぼく)とし、国内を鎮定すべきだと思います」

実のところ劉焉は心中で交趾牧(こうしのぼく。交州牧〈こうしゅうのぼく〉か?)への就任を望んでおり、世の混乱を避けたいと思っていた。だが、この献言が実現しないうち侍中(じちゅう)の董扶(とうふ)が密かに劉焉に告げる。

「まさに都は乱れんとしております。益州の分野(ぶんや。益州に相当する星宿)には天子の気がございます」

劉焉は董扶の話を聞くと考えが変わり、益州への赴任を望むようになった。ちょうどこのころ益州刺史の郤倹(げきけん)がでたらめな租税を課し、流言飛語は遠方まで届いた。

また、幷州(へいしゅう)では刺史の張壱(ちょういつ)が、涼州(りょうしゅう)でも刺史の耿鄙(こうひ)が、それぞれ殺害されたため、劉焉のかねての計画は実現をみる。

こうして劉焉は監軍使者(かんぐんししゃ)として地方へ出ることができ、益州牧(えきしゅうのぼく)を兼ねたうえ陽城侯(ようじょうこう)に封ぜられた。そして、郤倹を逮捕し取り調べにあたることになった。

なお、董扶は蜀郡西部属国都尉(しょくぐんせいぶぞっこくとい)への就任を希望し、太倉令(たいそうれい)の趙韙(ちょうい)とともに官を捨て劉焉に付き従った。

この年(188年)、益州では馬相(ばしょう)や趙祗(ちょうし)が緜竹県(めんちくけん)で黄巾(こうきん)と号し、役務に疲れきった民を集めて数日で数千人の集団となる。

彼らは手始めに緜竹県令(めんちくけんれい)の李升(りしょう)を殺害し、官民を糾合して1万余人にまで膨れ上がった。さらに雒県(らくけん)を攻略すると益州刺史の郤倹も殺害。続いて蜀郡・広漢(こうかん)・犍為(けんい)の3郡を破壊した。馬相は天子を僭称(せんしょう)し配下の軍勢は5ケタの数に達した。

益州従事(えきしゅうじゅうじ)の賈龍(かりょう)は数百人の私兵をひきいて犍為の東境にあったが、官民を併せた1千余人をもって馬相らを攻める。馬相は数日のうちに敗走し、益州は平穏を取り戻した。

そこで賈龍は吏卒を選び、劉焉を迎えに行かせた。劉焉は緜竹県に役所を移し離反者を受け入れると、寛容と恩恵を旨とした政治に努めた。一方、密かに独立の計画を推し進めてもいた。

張魯(ちょうろ)の母は巫術(ふじゅつ)を使い、若々しい姿をしており、劉焉の家と頻繁な行き来があった。劉焉は張魯を督義司馬(とくぎしば)に任じて漢中(かんちゅう)へ遣わし、長安(ちょうあん)へ通ずる谷に架けられた橋を断ち切らせ朝廷の使者も殺害。

こうしたうえで上書し、「米賊(べいぞく。『五斗米道〈ごとべいどう〉』の信者)が道路を遮断したため都への連絡手段がなくなりました」と述べておく。そして別件にかこつけ、州内の豪族の王咸(おうかん)や李権(りけん)ら10余人を殺害して自身の権威を示した。

これに対し、犍為太守の任岐(じんき)や賈龍が反感を抱いて劉焉を攻めたものの、敗れてふたりとも殺害された。

劉焉の意気が盛んになると、1千乗(じょう)を超える数の乗輿(じょうよ。お召し車)と車具を作らせた。荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)は、このように上奏して劉焉を牽制(けんせい)した。

「劉焉には、子夏(しか。孔子〈こうし〉の弟子)が(孔子の死後に)西河(せいか)で聖人の論をまねたのに似たところがございます」

このころ劉焉の息子たちは、長男の劉範が左中郎将(さちゅうろうしょう)、次男の劉誕が治書御史(ちしょぎょし)、四男の劉璋が奉車都尉(ほうしゃとい)として、みな献帝(けんてい)に付き従って長安にいた。三男で別部司馬(べつぶしば)の劉瑁だけは、以前から劉焉のそばに付き従っていた。

献帝は劉璋を遣って劉焉を戒めようとしたが、劉焉はそのまま劉璋を手元に留めてしまう。

194年、郿(び)に駐屯していた征西将軍(せいせいしょうぐん)の馬騰(ばとう)が反乱を起こす。劉焉は馬騰と手を結び、劉範とともに長安を襲撃させようとした。

しかし、この計画が漏れたため劉範は槐里(かいり)へ逃走。馬騰も敗れて涼州へ逃げ帰る。ほどなく劉範は殺害され、劉誕も捕らえられて処刑された。

議郎(ぎろう)の龐羲(ほうぎ)は劉焉と先祖代々の付き合いがあったので、残された劉焉の孫たちに呼びかけ、彼らを連れて蜀へ入った。

このとき劉焉は落雷による火災で城郭を焼失し、車具の類いも灰と化し、延焼により民家にまで被害が及んでいた。

そこで成都(せいと)に役所を移したが、亡くした息子たちに対する悲しみに加えて災異も気に病み、背中に悪性の腫瘍ができたためこの年(194年)のうちに亡くなった。

益州の大官となっていた趙韙らの上書によって詔(みことのり)が下り、劉璋が監軍使者・益州牧となり父の跡を継ぐことになった。

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管理人「かぶらがわ」より

劉焉の勢いが盛んになると、劉表はさりげなくチクりを入れていたのですね。でも劉表も魯恭王の末裔なので、このふたり実は親戚。

で、このあと中山靖王(ちゅうざんのせいおう。景帝の息子の劉勝〈りゅうしょう〉)の末裔だという劉備(りゅうび)との絡み(劉焉自身ではなく、息子の劉璋とのもの)があるわけですか……。

魯恭王(劉余)と中山靖王(劉勝)が異母兄弟という比較的近い関係だったことが、ここに来て影響を与えたとも言えそう。

劉焉はかなりの野心家だったようですが、帝族としてエリートコースをたどっています。それに比べると劉備は安喜県尉(あんきけんのい)からのスタートなので、家系の話がホントだったとしても、その後の経歴の異色ぶりは際立っていると思います。

仮に劉焉の跡継ぎが劉璋ではなく、長兄の劉範か次兄の劉誕だったとしたら――。劉備は迎えられる形で益州へ入れなかったかもしれません。

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