曹邵(そうしょう。秦伯南〈しんはくなん〉)※あざなは伯南

【姓名】 曹邵(そうしょう) 【あざな】 伯南(はくなん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹真(そうしん)の父、もとは秦姓(しんせい)

父母ともに不詳。息子の曹真は跡継ぎ。曹彬(そうひん)も同じく息子。

曹邵(秦伯南)は曹操(そうそう)の命を救ったものの、自身は殺害されてしまった。そのため曹操は彼の息子を引き取って養育し、曹丕(そうひ)と起居をともにさせたという。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹真伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると――。

「ある人の説では、曹真の父の伯南(秦伯南)は昔から曹操と親しかった。興平(こうへい)年間(194~195年)の末、袁術(えんじゅつ)の配下が曹操を攻めたとき、敵に追われた曹操は秦氏のところへ逃げ込んだ」という。

そして「伯南は曹操を迎え入れ、敵が曹操の居場所を尋ねた際、『私が曹操だ』と答えたために殺害されてしまった」と続き、「そのため曹操は伯南の手柄を感じ、姓を(秦氏から曹氏に)変えさせた」とあります。

この件については王沈(おうしん)の『魏書』の記事も引かれており――。

「初平(しょへい)年間(190~193年)に曹操が義兵を起こすと、曹邵(秦邵。秦伯南のこと)は仲間を募り、曹操に付き従って活躍した」

「この当時、豫州刺史(よしゅうしし)の黄琬(こうえん)が曹操を殺害しようとした。曹操は難を逃れることができたものの、曹邵は殺害されてしまった」ともありました。

本伝の記事とも比べるとそれぞれ内容は違うのですが、「曹操が曹真の父に世話(しかも自分の命に関わること)になったことがあり、その恩に報いるため曹真を引き取って養育した」。この点は確度が高そうです。

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