【姓名】 王経(おうけい) 【あざな】 彦緯(げんい)
【原籍】 清河郡(せいかぐん)
【生没】 ?~260年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第110回で初登場。
【正史】 登場人物。
曹髦(そうぼう)の決起に巻き込まれ……
父母ともに不詳。
王経は、同郡の崔林(さいりん)により農民から抜てきされたといい、後に江夏太守(こうかたいしゅ)を経て雍州刺史(ようしゅうしし)となる。
255年、王経は洮西(とうせい)で蜀(しょく)の大将軍(だいしょうぐん)の姜維(きょうい)らと戦って大敗。数万に上る戦死者を出し、退却して狄道城(てきどうじょう)に立て籠もった。
城は蜀軍に包囲されたが、魏(ぎ)の征西将軍(せいせいしょうぐん)の陳泰(ちんたい)らが軍勢を進めて包囲を解き、姜維は引き揚げて鍾題(しょうだい。鍾提〈しょうてい〉)に駐屯した。
やがて王経は召し還されて司隷校尉(しれいこうい)となり、甘露(かんろ)年間(256~260年)に尚書(しょうしょ)に転ずる。
260年、曹髦が司馬昭(しばしょう)の打倒を決意すると、侍中(じちゅう)の王沈(おうしん)と散騎常侍(さんきじょうじ)の王業(おうぎょう)、それに王経の3人を呼んで計画を打ち明けた。
王経は考え直すよう諫めたが、曹髦の気持ちは変わらず、郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の宮殿に行って事の次第を伝えた。
王沈と王業は大急ぎで司馬昭に報告し、司馬昭は備えを整える。
曹髦は数百人の奴僕をひきいて出撃したものの、ほどなく太子舎人(たいししゃじん)の成済(せいせい)に討たれてしまう。
そして王経は一族ともども逮捕され、東の市場で処刑された。
管理人「かぶらがわ」より
王経の名は『三国志』の何人かの紀伝に見えており、その裴松之注(はいしょうしちゅう)も含め主要な事績を拾ってみました。
王経の関連記事で目立つのは、255年の洮西での大敗がらみのものと、260年の曹髦の騒動がらみのものです。
曹髦の計画を司馬昭に知らせた王沈と王業は処刑されず、彼らに同行しなかった王経だけが処刑されるという、不運だったでは片づけられない結果になってしまいました。
曹髦の計画が無茶すぎたため、これを聞かされた時点で王経の運命が決まったようにも感じました。
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