荀粲(じゅんさん) ※あざなは奉倩(ほうせん)

【姓名】 荀粲(じゅんさん) 【あざな】 奉倩(ほうせん)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)潁陰県(えいいんけん)

【生没】 ?~?年(29歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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「女性は才知より容色」が持論

父は荀彧(じゅんいく)だが、母は不詳。荀惲(じゅんうん)・荀俁(じゅんぐ)・荀詵(じゅんしん)・荀顗(じゅんぎ)は兄。妻は曹氏(そうし。曹洪〈そうこう〉の娘)。

荀粲の兄たちは儒家の説を基に議論したが、荀粲だけは好んで道家の説を唱えた。だが、いくら弁論に長けた者でも、彼を言い負かすことはできなかったという。

そのうえ荀粲は、父の荀彧より従兄の荀攸(じゅんゆう。荀彧の従子〈おい〉)の生き方のほうが立派だと述べ、兄たちの怒りを買う。それでもみな弟の言い分に反論することさえできなかった。

曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)の初め、荀粲は都で傅嘏(ふか)と語り合い、裴徽(はいき)の仲立ちもあって親しくなる。また、夏侯玄(かこうげん)も彼らと仲が良かった。

荀粲は、女性は才知ではなく、あくまで容色を重視すべきだと考えていた。

驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の曹洪の娘が美人との評判だったので、荀粲は彼女を娶(めと)る。そして華麗な衣服や帷帳などをしつらえ、ひたすら妻を愛して歓宴を尽くした。

数年後に妻が病死すると、荀粲は悲しみを抑えきれず、彼も1年ほどして死去した。このとき29歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・荀彧伝)に付された「荀惲伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く何劭(かしょう)の『荀粲伝』によるものです。

この中では「荀粲は人を見下して尊大に振る舞ったため、普通の人々とはうまく付き合えず、交際があったのは一代の俊才や英傑ばかりだった」とあり――。

「そうしたことから荀粲の埋葬時に参列したのは10人ほどだったが、みな名を知られた人物ばかり。参列者が荀粲の死を悼む慟哭(どうこく)の声は、道ゆく人々を感動させた」ともありました。

荀粲は荀彧の息子っぽくないですよね。末っ子(七男だったという)で奔放なところがあったのでしょうか?

「女性は才知より容色」の結論に至った話など、もう少し詳しいものがあったらなと思いました。

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