徐庶(じょしょ) ※あざなは元直(げんちょく)

【姓名】 徐庶(じょしょ) 【あざな】 元直(げんちょく)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第124話で初登場。
【演義】 第035回で初登場。
【正史】 登場人物。

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劉備(りゅうび)に諸葛亮(しょかつりょう)を推薦し、両者を引き合わせた立役者

父母ともに不詳。

徐庶は初めの名を福(ふく。徐福)といい、もともと名家の出身ではなかった。若いころから任俠(にんきょう)を好み、剣術に長けていたという。

中平(ちゅうへい)年間(184~189年)の末、徐庶は人に雇われ、あだ討ちをする。そして顔に白い土を塗り、髪を振り乱して逃げたものの役人に捕らえられた。

だが、徐庶は姓名を問われても答えない。そこで役人は車に立てた柱に徐庶を縛り付け、太鼓を打ち鳴らして市場中に触れ回る。

それでも彼を知っていると申し出る者はおらず、そのうち仲間の手で助け出された。

以来、徐庶は身なりや態度を改め、心を入れ替えて学問に励む。塾へも通うようになったが、彼が無法者だった過去を聞き知ると、あえて付き合おうとする者はいなかった。

徐庶は謙虚に振る舞い、いつも早朝にひとりで掃除をする。人の気持ちを察して動くよう心がけ、やがて経書に精通すると、同郡の石韜(せきとう)と親しくなった。

初平(しょへい)年間(190~193年)、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)で争乱が起こったため、徐庶は石韜とともに荊州(けいしゅう)へ移る。荊州に来てからは特に諸葛亮と親しくなった。

207年、劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていた劉備が新野(しんや)にあったとき、徐庶は劉備と会い、諸葛亮を推薦する。

劉備は徐庶の進言に従い、自ら三度も住まいを訪ね、ついに諸葛亮を配下に加えた。

翌208年7月、曹操(そうそう)が軍勢をひきいて南下を開始し、荊州攻略に乗り出す。

同年8月、劉表が病死。長男の劉琦(りゅうき)を差し置き、次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継ぐ。

その劉琮は戦うことなく曹操に降伏してしまい、徐庶は劉備らとともに樊城(はんじょう)から南へ逃れる。

ところが、劉備は当陽(とうよう)で曹操軍に追いつかれて大敗し、徐庶の母が捕らえられる。このため徐庶は劉備に別れを告げ、曹操のもとへ行った。

後に曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)に至り、徐庶は右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)や御史中丞(ぎょしちゅうじょう)まで昇る。

同じく魏(ぎ)に仕えた石韜も郡守(ぐんしゅ。太守〈たいしゅ〉)や典農校尉(てんのうこうい)を歴任した。

曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)、諸葛亮が隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)に出兵した折、旧友の徐庶と石韜の官職を聞き知り慨嘆する。

「それほど魏には人物が多いのか……。なぜ、あのふたりは重用されないのだろうか?」

その数年後、徐庶は病死(時期は不明)したという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』などによるものです。

徐庶が劉備に仕えた期間は数年程度と思われ、その間の詳しい事績もはっきりしないのですけど……。諸葛亮を推薦した一事だけ見ても、劉備にとっては配下というより恩人ですよね。

徐庶の母が曹操軍に捕らえられていなかったり、(不謹慎ながら)乱軍中で亡くなっていたとしたら、つまり徐庶が諸葛亮ともども劉備に仕え続けていたら――。後の歴史にどのくらいの影響があったのか、なかったのか?

ある一事が別の一事へとつながっていく。ホント、先のことはわかりません。

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