朱儁(しゅしゅん) ※あざなは公偉(こうい)

【姓名】 朱儁(しゅしゅん) 【あざな】 公偉(こうい)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)上虞県(じょうぐけん)

【生没】 ?~195年(?歳)

【吉川】 第010話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。

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黄巾(こうきん)討伐などで活躍した名将、剛直さを貫き、董卓(とうたく)にも屈せず

父母ともに不詳。

朱儁は若いころから学問を好み、郡の功曹(こうそう)になった。のち孝廉(こうれん)に推挙された。

181年4月、交趾刺史(こうししし)として、交趾と合浦(ごうほ)の両郡の烏滸蛮(うこばん)を討伐。

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』にも交趾刺史とあったが、なぜ交州刺史(こうしゅうしし)としないのかよくわからず。

184年3月、黄巾の乱が勃発すると、朱儁は右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)として、左中郎将(さちゅうろうしょう)の皇甫嵩(こうほすう)とともに、潁川(えいせん)で討伐にあたる。

このとき朱儁は上表し、孫堅(そんけん)を佐軍司馬(さぐんしば)として従軍させることが認められた。

同年4月、朱儁は黄巾賊の波才(はさい)に敗れたが、5月には皇甫嵩とともに、長社県(ちょうしゃけん)で波才らを大破。この戦いでは騎都尉(きとい)の曹操(そうそう)の活躍があった。

同年6月、皇甫嵩とともに、西華県(せいかけん)で汝南郡(じょなんぐん)の黄巾賊を大破。

霊帝(れいてい)の詔(みことのり)を受け、引き続き朱儁は南陽郡(なんようぐん)の黄巾賊を、皇甫嵩は東郡(とうぐん)の黄巾賊を、それぞれ討伐することになる。

同年11月、朱儁は宛城(えんじょう)を攻略し、黄巾賊の別帥(べっすい)の孫夏(そんか)を討ち取る。

193年6月、太僕(たいぼく)から太尉(たいい)に昇進し、録尚書事(ろくしょうしょじ)となる。

翌194年7月、太尉を罷免される。

翌195年3月、献帝(けんてい)を自軍に拉致した李傕(りかく)に対抗し、郭汜(かくし)が公卿(こうけい)を人質にする。

このとき朱儁も郭汜に捕らえられたが、剛直な性格ゆえ屈辱に耐えられず、病を発して亡くなったという。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には朱儁の伝が立てられていないため、その事績もごく断片的なものしか拾えませんでした。

一方で范曄の『後漢書』には彼の伝が立てられており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、そちらにはもう少し具体的な記事があるようです。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』によると、「董卓は朱儁に会うと、うわべではごく親しげに接して打ち解けているように見せていたが、心中では彼を快く思っていなかった」ということです。

「朱儁のほうでも察していて、董卓への心構えを怠らなかった」とも。

190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、董卓は洛陽(らくよう)から長安(ちょうあん)へ遷都すべきだと主張しました。

しかし、そのたびに朱儁が反対を唱え、董卓の意見を封じたのでした。

董卓は朱儁を嫌ってはいたものの、彼の名声を利用したいと考えます。そこで上表して太僕に任じ、朱儁を自分の副官にしようとしました。

ところが朱儁は承知せず、進み出て言いました。

「都を遷(うつ)すのはよくありません。遷都なされば、必ずや天下の人々の期待に背くことになり、かえって山東の反乱者どもの結束を固めてしまうでしょう。私には遷都の利点がわかりません」

担当官吏が、朱儁の態度をとがめて言いました。

「こうしてあなたを召して官職を授けようとするのに、それをあなたは断られた。しかも遷都については問われてもいないのに、あなたは意見を述べられた。これはどうしたことでしょうか?」

朱儁が答えます。

「相国(しょうこく。董卓)の副官という任は、私の堪えるところではございません。ですが遷都という無謀な企ては、私もひどく気にしております。その任に堪えぬところをお断りし、ひどく気になるところを上言した次第ですが、これは私の当然すべきことなのでございます」

すると担当官吏が言いました。

「あなたは遷都の話を持ち出されたが、そのような計画などありはしない。たとえあったとしても、まだ公表されていない。どこから伝え聞かれたのか?」

再び朱儁が答えました。

「董相国が、私にそう話されました。相国からお聞きしたのです」

「担当官吏はこれ以上、朱儁を問い詰めることができず、朝廷の人々は彼の態度を称賛して心服した」のだと。

このような態度を取っていて、よく董卓に殺されなかったなと思いますが、朱儁の名声がそれほどのものだったということなのでしょうね。

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