張角(ちょうかく) ※太平道(たいへいどう)の教主

【姓名】 張角(ちょうかく) 【あざな】 ?

【原籍】 鉅鹿郡(きょろくぐん)

【生没】 ?~184年(?歳)

【吉川】 第001話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。

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「太平道(たいへいどう)」の教主、天公将軍(てんこうしょうぐん)を称して黄巾(こうきん)の乱を主導

父母ともに不詳。張宝(ちょうほう)と張梁(ちょうりょう)は弟。

184年3月(2月とも)、宗教組織「太平道」の教主である張角が、配下の36方(教区)に分かれた各地の帥(すい)らとともに一斉蜂起する。この動きに多くの地方が呼応。郡県の役所を焼き、主だった役人を殺害した。

同年3月、霊帝(れいてい)が詔(みことのり)を下して、河南尹(かなんいん)の何進(かしん)を大将軍(だいしょうぐん)に任じ、兵をひきいて洛陽(らくよう)の都亭(とてい)に駐屯させる。

さらに霊帝は八関都尉(はっかんとい)の官を置き、洛陽周辺の守りを固めた。

八関は、函谷関(かんこくかん)・広城関(こうじょうかん)・伊闕関(いけつかん)・大谷関(たいこくかん)・轘轅関(かんえんかん)・旋門関(せんもんかん)・小平津関(しょうへいしんかん)・孟津関(もうしんかん)をいう。

同年3月、霊帝が党人(とうじん)を許し、党錮(とうこ)の禁を解く。党人や関係者で、辺境に流されていた者の帰還が認められた。

同年3月、霊帝が三公と九卿(きゅうけい)に詔を下し、馬や弩(ど)の供出を命ずるとともに、列将の子孫および吏民で戦陣の方略に詳しい者を推挙させ、公車をもって召し寄せる。

そして、北中郎将(ほくちゅうろうしょう)の盧植(ろしょく)に張角の討伐を命ずる。

併せて左中郎将(さちゅうろうしょう)の皇甫嵩(こうほすう)と右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)の朱儁(しゅしゅん)には、潁川郡(えいせんぐん)の黄巾賊を討伐するよう命じた。

同年3月、黄巾の張曼成(ちょうまんせい)が、南陽太守(なんようたいしゅ)の褚貢(ちょこう)を攻めて殺害する。

張角に続く形で、黒山(こくざん)・白波(はくは)・黄龍(こうりょう)・左校(さこう)・牛角(ぎゅうかく)・五鹿(ごろく)・羝根(ていこん)・苦蝤(くしゅう)・劉石(りゅうせき)・平漢(へいかん)・大洪(たいこう)・司隷(しれい)・縁城(えんじょう)・羅市(らふつ)・雷公(らいこう)・浮雲(ふうん)・飛燕(ひえん)・白爵(はくしゃく)・楊鳳(ようほう)・于毒(うどく)らもそれぞれ蜂起した。

多い者は配下の数が2、3万、少ない者でも数千を下らなかったという。

同年4月、黄巾の波才(はさい)が朱儁を撃破。

同年4月、汝南郡(じょなんぐん)の黄巾が、邵陵(しょうりょう)で汝南太守の趙謙(ちょうけん)を討ち破る。

同年4月、広陽国(こうようこく)の黄巾が、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の郭勲(かくくん)と太守の劉衛(りゅうえい)を殺害。

ここでは劉衛が国相(広陽国相)ではなく、太守となっていたものの、理由はわからず。

同年5月、黄巾の波才が、長社県(ちょうしゃけん)で皇甫嵩と朱儁に大破される。この戦いでは騎都尉(きとい)の曹操(そうそう)の活躍があった。

同年6月、黄巾の張曼成が、南陽太守の秦頡(しんけつ)に撃破されて斬られる。

同年6月、汝南郡の黄巾が、西華県(せいかけん)で皇甫嵩と朱儁に大破される。

霊帝は詔を下し、引き続き皇甫嵩に東郡(とうぐん)の黄巾賊を、朱儁に南陽郡の黄巾賊を、それぞれ討伐するよう命じた。

同年6月、張角が広宗県(こうそうけん)で盧植の包囲を受ける。ところがほどなく、盧植は小黄門(しょうこうもん)の左豊(さほう)の誣告(ぶこく)により罪に当てられる。

霊帝は盧植に代え、中郎将の董卓(とうたく)を遣わしたものの、張角に撃破された。

同年7月、張脩(ちょうしゅう。張衡〈ちょうこう〉ともいう)が巴郡(はぐん)で反乱を起こし、郡県に侵攻。

同年8月、黄巾の卜巳(ぼくし)が、倉亭(そうてい)で皇甫嵩に捕らえられる。

霊帝は皇甫嵩に詔を下し、北上して張角を討伐するよう命じた。このころ張角が広宗県で病死。

同年10月、張角の弟の張梁が、広宗県で皇甫嵩に捕らえられる。張角の柩(ひつぎ)は発(あば)かれ、その首が斬り落とされた。

同年11月、張角のもうひとりの弟である張宝も、下曲陽県(かきょくようけん)で皇甫嵩に斬られる。

同年11月、黄巾の孫夏(そんか)が、宛城(えんじょう)で朱儁に討たれる。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張魯伝〈ちょうろでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』には、以下のようにありました。

「『太平道』というのは、巫師(みこ)が9つの節のある杖を持ってまじないをし、病人に叩頭(こうとう)させ、過失を反省させてからまじないの水を飲ませる、というものだった」

「病気にかかっても、短期間で快癒した場合は信心が深いということになり、快癒しなかった場合は信心が足りないと考えられていた」

確かに怪しげなものではありますけど、当時の国情は、張角の教えが爆発的に広まる素地を備えていたということ。

このあと董卓の専横を経て、本格的な群雄割拠の時代へ突入していきますが、黄巾の乱で漢室(かんしつ)は一段と弱体化し、その後の流れを決定づけることになりました。

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