張氏(ちょうし)E ※孫晧(そんこう)の妻、左夫人(さふじん)

【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫晧(そんこう)の側室(左夫人〈さふじん〉)

父は張布(ちょうふ)だが、母は不詳。妹の張氏も孫晧の側室だった。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和何姫伝〈そんかかきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には以下のようにある。

「(張氏の妹の)張氏は孫晧の美人(びじん。皇妃の位のひとつ)として寵愛されていた」

「あるとき孫晧が張氏に『お前の父はどこにいるのか?』と尋ねたところ、張氏は『(父の張布が264年に孫晧に誅殺されていたため、)悪者に殺されました』と答えた。孫晧はひどく腹を立て、張氏を棒で殴り殺した」

「ところが、しばらくして彼女のことを懐かしく思うようになり、腕のいい工人に命じて木彫りの人形を作らせ、いつも座のそばに置いた」

「孫晧は側近に尋ね、張布には張美人の姉にあたる娘がいることを知った。すでに姉の張氏は馮純(ふうじゅん)に嫁いでいたが、孫晧は奪い取って後宮に入れた」

「孫晧は張氏に左夫人の位を与え、昼夜の区別なく房中で飲食し、政事を聴かなくなる」

「また尚方(しょうほう。天子〈てんし〉の刀剣や器具を製作する役所)に命じ、黄金の髪飾りや簪(かんざし)、仮髻(かけい。かつらの一種)を何千という数で作らせ、宮女たちに着けて相撲を取らせた」

「朝できたものも夕にはつぶれてしまい、壊れたものは作り直させた。この機会に工人たちが黄金をくすねてしまったため、宮中の倉庫は空っぽになった」

「やがて張氏が亡くなると、孫晧は悲しみと思慕の気持ちから後苑(こうえん)に葬り、大きな塚を築いた。さらに工人に柏(カシワ)の木で人形を作らせ、それを塚の中に入れて護衛兵としたうえ、莫大(ばくだい)な金銀や珍宝も副葬した」

「張氏の葬儀を終えると、孫晧は後宮に籠もって喪に服し、半年も外に姿を見せなかった。都の人々は盛大な葬儀の様子を見て、みな孫晧が亡くなって葬られたのだと考えた」

「孫晧の舅子(おい)の何都(かと)は顔つきが孫晧に似ていたため、『何都が帝位を継いだのだ』というデマも流れた」

「臨海太守(りんかいたいしゅ)の奚熙(けいき)はデマを真に受け、兵をひきいて都へ向かい、何都を誅殺しようとした」

「何都の伯父で備海督(びかいとく)の何植(かしょく)は、奚熙を攻めて殺害し、その一族も皆殺しにした。こうしてデマは下火になったが、なおも人々は疑いを抱いていた」という。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

孫晧には暴虐なイメージが定着していますが、寵愛した女性への入れ込み方も尋常じゃないですよね。

同じく左夫人だった王氏(おうし)が亡くなったときにも、数か月も人前に姿を見せなくなっていますし……。

こういうふうになるまでには、孫晧にしかわからない事情があったのだと思います。

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