鄭像(ていしょう)

【姓名】 鄭像(ていしょう) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~253年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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魏(ぎ)への忠義を貫いた兵士

父母ともに不詳。

253年、呉(ご)の太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)に合肥新城(ごうひしんじょう)が包囲されたとき、鄭像は鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)配下の兵士だった。

この戦いの途中、鄭像は連絡を取るための使者の役目を買って出るが、城外へ出た後で呉軍に捕らえられてしまう。

鄭像は頭に馬用の重りを付けられ、後ろ手に縛られて城の周囲を引き回された。

さらに呉軍では、「すでに(救援の)大軍は洛陽(らくよう)に帰還した。早く投降したほうがいいぞ」と大声で叫ばせようとする。

だが鄭像は従わず、城内の味方に向かってこう叫ぶ。

「救援の大軍は近くまで来ていて、敵の包囲の外にいる。壮士たちよ。大いに努め励んでくれ!」

呉軍の者は剣をもって口をふさごうとしたが、鄭像は大声で呼びかけ続け、ほどなく殺された。

翌254年、毌丘倹の上言により鄭像の功が評価され、関中侯(かんちゅうこう)の爵位を追贈されたうえ、兵士の名簿から外される。

また、鄭像の息子が爵位を継ぐことも認められ、部曲将(ぶきょくしょう。部隊長)が戦死した際の定めに従うことになったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)によるもの。

『三国志』には「功績により一躍、○○になる」という例がたびたび見られますが、鄭像の場合は一兵士から(死後とはいえ)関中侯になったので、これに当てはまりますね。

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