【姓名】 杜預(とよ。どよ) 【あざな】 元凱(げんかい)
【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)杜陵県(とりょうけん)
【生没】 222~284年(63歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。
呉(ご)の平定に貢献、『左伝(さでん。春秋左氏伝〈しゅんじゅうさしでん〉)』の研究家としても有名
父は杜恕(とじょ)だが、母は不詳。杜畿(とき)は祖父。妻は司馬氏(しばし。司馬懿〈しばい〉の娘)。息子の杜錫(としゃく)は跡継ぎ。
252年、杜預は杜恕が配所の章武(しょうぶ)で死去したため跡を継いだ。
★杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。
257年、楽詳(がくしょう)の上書により杜畿の功績が再評価されると、その孫にあたる杜預が豊楽亭侯(ほうらくていこう)に封ぜられ、封邑(ほうゆう)100戸を賜る。
263年、杜預は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の鍾会(しょうかい)配下の長史(ちょうし)として蜀(しょく)討伐に従軍。
279年、杜預は鎮南大将軍(ちんなんだいしょうぐん)・都督荊州諸軍事(ととくけいしゅうしょぐんじ)として呉討伐に加わり、江陵(こうりょう)へ進撃。
翌280年2月、呉の江陵督の伍延(ごえん)を斬る。
同年5月?、呉平定時の功により、当陽侯(とうようこう)に封ぜられた。
284年、杜預は63歳で死去し、息子の杜錫が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・杜畿伝)に付された「杜恕伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『杜氏新書(とししんしょ)』および王隠(おういん)の『晋書(しんじょ)』などによるものです。
(正史の)『晋書』(武帝紀〈ぶていぎ〉)も一部参考にしましたが、肝心の『晋書』(杜預伝)の記事は吟味できていません。現状では下手に触らないほうがよさそうなので、いずれ加筆できればと思います。
なお(王隠の)『晋書』では、杜預と『左伝』との関わりについて触れていました。
杜預は種々の経典(けいてん)に目を通し、『公羊(くよう。春秋公羊伝)』と『穀梁(こくりょう。春秋穀梁伝)』は詭弁(きべん)であると結論づけます。
さらに、これまでの儒学者が説いてきた『左伝』は、(撰者〈せんじゃ〉として仮託される)左丘明(さきゅうめい)の意を十分に究めたものではなく、『公羊伝』や『穀梁伝』の存在により混乱しているとも考えました。
そこで(『春秋』の)複雑な微言を案じつつ、『春秋左氏経伝集解(しゅんじゅうさしけいでんしっかい)』を著しました。
ほかにも諸家の説を考察して『釈例(しゃくれい)』と名付けたり、『盟会図(めいかいず)』や『春秋長歴(しゅんじゅうちょうれき)』を著して独自の学問を作り上げ、これらは杜預が老年になってようやく完成をみたのだとか。
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