【姓名】 孫恵(そんけい) 【あざな】 徳施(とくし)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~?年(47歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
孫賁(そんほん)の曾孫
父母ともに不詳。孫賁の曾孫にあたるという。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝)に付された「孫鄰伝(そんりんでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『孫恵別伝(そんけいべつでん)』によると、孫恵は学問を好み、才知のある人物だったそうです。
晋(しん)の永寧(えいねい)元(301)年、斉王(せいおう)の司馬冏(しばけい)が義兵を挙げた際に加わり、功績によって晋興侯(しんこうこう)に封ぜられ、大司馬(だいしば)の役所に招かれて賊曹(ぞくそう)を務めました。
ところが司馬冏はクーデターの成功後、驕(おご)り高ぶって僭上(せんじょう)の沙汰が多くなり、天下の人々の期待を裏切りました。
孫恵は真心のこもった献言をし、政権を譲って封国へ帰るよう勧めたものの、司馬冏は聞き入れず、やがて破滅してしまいます。
この後、孫恵は成都王(せいとおう)の司馬穎(しばえい)に招かれて、大将軍府(だいしょうぐんふ)の参軍(さんぐん)に任ぜられました。
そのころ司馬穎は長沙王(ちょうさおう)の司馬乂(しばがい)と事を構えようとしており、陸機(りくき)を前鋒都督(ぜんぽうととく)に任じていました。
孫恵は陸機と同郷で親しくしていたため、陸機が前鋒都督を務めることで禍いを招くのを心配し、王粋(おうすい)に地位を譲るよう勧めます。
陸機は「きみの言う通りにすれば、私が戦いを避けてふた股をかけているように見え、かえって禍いを招くことになろう」と言いましたが、ほどなく誅殺され、ふたりの弟の陸雲(りくうん)と陸耽(りくたん)まで殺されました。
孫恵は事件をひどく悲しみ、残念がったのだと。
永興(えいこう)元(304)年、司馬衷(しばちゅう)が鄴(ぎょう)へ行幸し、司空(しくう)で東海王(とうかいおう)の司馬越(しばえつ)が下邳(かひ)で挙兵の準備を進めていたとき、孫恵は司馬越に手紙を送りました。
この手紙で孫恵は姓名を偽り、南岳の逸民の秦秘之(しんぴし)と称して司馬越に世を治め正すための策を提示し、帝室への忠勤に励むよう勧めます。
司馬越は手紙の内容が立派だったため、大通りに高札を出して手紙の主を捜し、名乗り出た孫恵と会いました。
司馬越は孫恵を即座に記室参軍(きしつさんぐん)に任じ、文書や上疏文をすべて任せ、政策の立案にも参画させたそうです。
孫恵は顕職を歴任した後、広武将軍(こうぶしょうぐん)・安豊内史(あんぽうないし)となり、47歳で亡くなって(時期は不明)います。
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