張承(ちょうしょう)A ※あざなは公先(こうせん)

【姓名】 張承(ちょうしょう) 【あざな】 公先(こうせん)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)脩武県(しゅうぶけん)

【生没】 ?~218年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張範伝(ちょうはんでん)』に付された「張承伝」あり。

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正論を吐いて袁術(えんじゅつ)の不興を買う

父は張延(ちょうえん)だが、母は不詳。張範は兄で、張昭(ちょうしょう)は弟。張戩(ちょうせん)という息子がいた。

張承の家は名門で、祖父の張歆(ちょうきん)が司徒(しと)を、父の張延が太尉(たいい)を、それぞれ務めたことがあった。

張承は方正(ほうせい。官吏候補者を推挙する際の一科目)として召されて議郎(ぎろう)となり、後に伊闕都尉(いけつとい)に転ずる。

190年、董卓(とうたく)が乱を起こすと官職を辞し、兄弟たちとともに揚州(ようしゅう)へ避難する。

袁術から礼を尽くして招かれたが、兄の張範は病気と称して行こうとせず、袁術も無理に従わせようとしなかった。

兄に代わって張承が挨拶に出向くと、袁術はこう尋ねる。

「むかし周(しゅう)の王室が衰微したときには、斉(せい)の桓公(かんこう)や晋(しん)の文公(ぶんこう)による覇業があった。秦(しん)が政治を誤ったときには、漢(かん)が跡を受けて政権を握った」

「いま私は領地の広さ、配下の士卒や民衆の多さを利し、斉の桓公と同じ幸運を求め、漢の高祖(こうそ)の事績をまねたいと思うが、どうだろうか?」

張承が答えた。

「徳義が問題なのであって、強さは問題ではありません。よく徳を用いて天下の求めに同調されるなら、たとえ平民の身分から出発しても、天下を支配することは困難ではないのです」

「しかしながら、もし分不相応なまねをされ、時勢に逆らった行動をされ、民にそっぽを向かれれば、誰が功業を打ち立てることができましょう」

これを聞いた袁術は不機嫌になった。

当時、曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)の攻略に乗り出そうとしていたため、さらに袁術はこうも尋ねる。

「いま曹操は疲弊した数千の兵をもって、10万の軍勢(袁紹軍〈えんしょうぐん〉)に敵対するつもりでいる。これは力量を考えないものだが、きみはどう思うか?」

再び張承が答えた。

「漢の徳が衰えたと申しましても、いまだ天命は改まっておりません。いま曹操は天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を擁し、天下に号令しています。100万の軍勢に敵対したとしても問題はないでしょう」

また袁術は不愉快な様子を見せ、張承は彼のもとから辞去した。

204年、曹操が冀州を平定すると、兄の張範に迎えの使者がやってくる。

張範は病気のため彭城(ほうじょう)に留まったので、代わって張承が曹操のところへ行き、諫議大夫(かんぎたいふ)に任ぜられた。

213年、魏が建国されると、張承は丞相参軍祭酒(じょうしょうさんぐんさいしゅ)として趙郡太守(ちょうぐんたいしゅ)を兼ね、政治と教化が大いに行き渡ったという。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

218年、曹操が西征した際、張承は召されて参軍事(さんぐんじ)を務めたが、軍勢が長安(ちょうあん)まで進んだところで病死した。

管理人「かぶらがわ」より

まずは先に採り上げた張範と同様、関連する人物についての補足から。

このサイトでは同姓同名の人物がいる場合、記事タイトルや人物一覧などでは○○A、○○Bというふうに表記していますが、記事中のほかの部分では特に表記を区別していません。なので、今回のようなケースではわかりにくかったと思います。

張承の弟の張昭ですが、呉(ご)の元老である張昭(あざなは子布〈しふ〉)とはもちろん別人です。

張承には具体的な事績に関する記事が少ないですが、袁術への返答など、その性格をうかがわせるものはありました。

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