張範(ちょうはん)

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【姓名】 張範(ちょうはん) 【あざな】 公儀(こうぎ)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)脩武県(しゅうぶけん)

【生没】 ?~212年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張範伝』あり。

義気ある言葉でわが子と甥を救う

父は張延(ちょうえん)だが、母は不詳。張承(ちょうしょう)と張昭(ちょうしょう)は弟。張陵(ちょうりょう)と張参(ちょうさん)というふたりの息子がいた。

張範の家は名門で、祖父の張歆(ちょうきん)が「司徒(しと)」を、父の張延が「太尉(たいい)」を、それぞれ務めたことがあった。

太傅(たいふ)の袁隗(えんかい)は娘を張範に娶せたいと思ったが、彼はこの話を辞退して受けなかった。

張範は落ち着いた性格で、老荘の教えを好み、栄利には無関心。朝廷から召されても応ずることはなかった。

190年、董卓(とうたく)が乱を起こすと弟たちと揚州(ようしゅう)へ避難する。袁術(えんじゅつ)は礼を尽くして招いたが、張範は病気と称して行こうとせず、袁術も無理に従わせようとはしなかった。

204年、曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を平定すると、張範のもとに迎えの使者が来る。張範は病気のため彭城(ほうじょう)にとどまり、弟の張承を曹操のところへ行かせた。

その後、張範の息子の張陵と張承の息子の張戩(ちょうせん)が、山東(さんとう)の賊軍に捕らえられてしまう。このとき張範は、ふたりをもらい受けるべく賊軍の陣まで出向き、張陵だけ返してもらうことができた。

しかし、張範はわが子がかわいいとは言いながらも、張戩の幼さをふびんに思うとも言い、張陵を張戩と取り換えてもらいたいと申し出る。すると賊は彼の義気に感じ、張陵と張戩をふたりとも返した。

208年、曹操が荊州(けいしゅう)から帰還した際、張範は陣中で目通りを果たす。彼は「議郎(ぎろう)・参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)」に任ぜられ大変な尊敬を受けた。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

曹操は出征するとき、いつも張範と邴原(へいげん)を都に残し、息子の曹丕(そうひ)ともども留守を預からせた。また曹丕に、「何か行う場合は必ずこのふたりに相談せよ」とも言っており、曹丕も彼らに対し子孫の礼を執っていた。

張範は窮乏している者を助け、家に余財を残さなかったため、都の内外にいた孤児や寡婦から頼りにされた。彼は贈り物を拒むことはなかったが、まったく使おうともしなかった。その地を離れることになると、贈られた物はすべて返したという。

212年、張範は死去した。

管理人「かぶらがわ」より

まずは張範に関連する人物についての補足から。このサイトでは同姓同名の人物がいる場合、記事タイトルや人物一覧などでは「○○A」「○○B」というふうに表記していますが、記事中のほかの部分では特に区別した表記にしていません。なので、今回のようなケースではわかりにくかったと思います。

張範の弟の張承と張昭ですが、ふたりとも呉(ご)に関連する両人とは別人です。また張範の息子の張陵も、張魯(ちょうろ)の祖父である張陵とはもちろん別人です。

名門に生まれながらも栄利を好まず、困窮者への援助を惜しまない。こういうタイプの人は当時から少なかったのでしょうけど……。張範には、そういった援助に押しつけがましいところが感じられないのが、なおいいなと思いました。

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