鍾繇(しょうよう)

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【姓名】 鍾繇(しょうよう) 【あざな】 元常(げんじょう)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)長社県(ちょうしゃけん)

【生没】 151~230年(80歳)

【吉川】 第177話で初登場。
【演義】 第056回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鍾繇伝』あり。

軍事と政事の両面で活躍した魏の功臣。定陵成侯(ていりょうのせいこう)

父母ともに不詳。鍾迪(しょうてき)は祖父。鍾演(しょうえん)は弟。息子の鍾毓(しょういく)は跡継ぎ。鍾会(しょうかい)は末子だが、ほかにも息子がいたことがうかがえる。

まだ幼かったころ、鍾繇は族父(おじ)の鍾瑜(しょうゆ)と洛陽(らくよう)へ行ったことがあり、その道中で人相見に出会った。

人相見は鍾繇を見て言う。

「この子には出世の相があります。ですが水に苦しむに違いありませんから、よくお気をつけなさい」

そこから10里(り)も進まないうち、とある橋を渡る。すると馬が驚き、鍾繇は川に落ちて死にそうな目に遭った。鍾瑜は人相見の言葉が的中したと考え、いよいよ鍾繇を大事にし、学資を出して学問に専念できるようにもした。

のち鍾繇は孝廉(こうれん)に推挙され、「尚書郎(しょうしょろう)」を経て「陽陵県令(ようりょうけんのれい)」に任ぜられたものの、病気のため辞職。

やがて三公の役所から招聘(しょうへい)され、「廷尉正(ていいせい)」や「黄門侍郎(こうもんじろう)」を務める。

195年、献帝(けんてい)は長安(ちょうあん)にあり、李傕(りかく)と郭シ(かくし。氵+巳)らが市街を混乱させていた。

曹操(そうそう)は「兗州牧(えんしゅうのぼく)」を兼ねると、従事(じゅうじ)の王必(おうひつ)を遣わし献帝に上書する。初め李傕らは使者の王必を留め置いたが、鍾繇の進言に従い受け入れることにした。以後、曹操は使節を通ずることができるようになる。

曹操は、たびたび荀イク(じゅんいく)が鍾繇を称賛するのを聞いていたうえ、今回の進言の件もあったのでますます親しみを覚えた。

李傕らが献帝を強迫するようになると、鍾繇は尚書郎の韓斌(かんひん)と協力して策を巡らせる。この年、献帝が長安を脱出できたことには鍾繇らの働きがあった。

翌196年、曹操が献帝を許(きょ)に迎えると、鍾繇は「御史中丞(ぎょしちゅうじょう)」に任ぜられる。のち「侍中(じちゅう)・尚書僕射(しょうしょぼくや)」に昇進し「東武亭侯(とうぶていこう)」に封ぜられた。

当時、関中(かんちゅう)の馬騰(ばとう)と韓遂(かんすい)らは、それぞれ強力な軍勢を抱え争い合っていた。曹操のほうは山東(さんとう)で戦い続けていたが、背後にあたる関右(かんゆう。関中)のことが気がかりだった。

そこで曹操の上奏により、鍾繇が「侍中」のまま「司隷校尉(しれいこうい)」を兼ね、「持節(じせつ)」として関中諸軍の総指揮を執ることになる。この際、特に法令に拘束されず、自由に裁量することも許された。

鍾繇は長安に到着すると馬騰や韓遂らに書簡を送り、禍福や利害について説く。これを受け馬騰と韓遂は、息子を人質として参内させることを認めた。

200年、曹操が官渡(かんと)で袁紹(えんしょう)と対峙(たいじ)したとき、鍾繇は2千頭の軍馬を供給。曹操は書簡を送り、この功績を高く評価した。

202年、匈奴(きょうど)の単于(ぜんう。王)が平陽(へいよう)で反乱を起こすと、鍾繇は軍勢をひきいて包囲する。だが、陥落させられないうちに袁尚(えんしょう)配下で河東太守(かとうたいしゅ)の郭援(かくえん)の軍勢が到着。敵の勢いは甚だ盛んだった。

鍾繇は、包囲を解いて引き揚げるよう主張する諸将を抑え、張既(ちょうき)に馬騰を説得させる。これに応じた馬騰は、息子の馬超(ばちょう)に1万余の精鋭をひきいさせ郭援を迎え撃つ。

郭援は軽率にも汾水(ふんすい)を渡ろうとし、まだ半ばも渡らないうちに鍾繇らの攻撃を受ける。大敗した郭援は馬超配下の龐悳(ほうとく)に斬られ、単于は降伏。

その後、衛固(えいこ)が反乱を起こし、張晟(ちょうせい)や張琰(ちょうえん)および幷州刺史(へいしゅうしし)の高幹(こうかん)らとともに一帯を荒らし回る。鍾繇は再び諸将をひきいて討伐にあたり、これを撃破した。

以前、献帝が長安にあったころ、洛陽から住民がいなくなっていた。鍾繇は関中の民を洛陽へ移住させ、逃亡者や反乱者も呼び入れて住民を増やす。数年の間に戸数も充実し、211年に曹操が関中を討伐したとき、これを利用することができた。

曹操の上奏により、鍾繇は「前軍師(ぜんぐんし)」となる。

213年、魏が建国されると「大理(だいり)」に任ぜられる。

216年、「相国(しょうこく)」に昇進。

219年、西曹掾(せいそうえん)の魏諷(ぎふう)が謀反を企んだ際、責任を問われ免職。

翌220年2月、曹丕(そうひ)が「魏王」を継ぐと、再び「大理」として起用される。

同年10月、曹丕が帝位に即くと改めて「廷尉(ていい)」となり、「崇高郷侯(すうこうきょうこう)」に爵位が進む。

223年、「太尉(たいい)」に昇進し「平陽郷侯(へいようきょうこう)」に移封。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと「定陵侯」に爵位が進む。その際に500戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1800戸となり、「太傅(たいふ)」に昇進。

このころ鍾繇は膝の具合が悪く、拝伏したり立ち上がったりすることがままならなかった。また、司徒(しと)の華歆(かきん)も高齢で持病を抱えていた。

そこで曹叡は、朝見時に車に乗って参内することを許し、彼らを侍衛が抱え上げて席に着かせた。以後、三公に病があるときは、これがそのまま慣例になったという。

230年、鍾繇が80歳で死去すると、曹叡は喪服を着けて弔問した。「成侯」と諡(おくりな)され息子の鍾毓が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には、鍾繇が曹操・曹丕・曹叡の3代にわたり、刑罰に関する意見を述べた記事がありました。その趣旨は、死刑の代わりに古代の肉刑(身体を傷つけたり切断したりする刑)を復活させて用いようというもの。

曹操の時は、ほかの論者が民を喜ばせるやり方ではないと主張したため沙汰やみになり、曹丕の時は、詔(みことのり)によって公卿(こうけい)が協議を行ったものの、議論が決着をみないうち、ちょうど戦が起こって沙汰やみになりました。

そして曹叡の太和(たいわ)年間(227~233年)には、詔によって公卿や群官が公正な論議を行うことになり、司徒の王朗(おうろう)の意見が、論議に参加した100余人から多くの支持を得ます。

その趣旨は、死刑の条項を減らし、代わりに肉刑の条項を増やすことについて、完全には賛成しかねるというものでした。

いま肉刑を採用すれば、おそらく死刑の条項を減らした意図が万民に明確に伝わらないうちに、肉刑のうわさだけが仇敵(きゅうてき。蜀〈しょく〉や呉〈ご〉)の耳に宣伝されるだろう。これは遠方の民を味方につけるのによい方法ではない。

鍾繇が軽減を望んでいる死罪を調査して髠刑(こんけい。髪を剃〈そ〉る刑罰)にするのがよいと。刑が軽すぎることが問題ならば、労役の年数を倍にすればよいとも。

曹叡は、まだ蜀や呉が平定されていないからと、結局は沙汰やみにしています。

なおこの時の鍾繇の上奏には、肉刑を復活させることで、低く見積もっても年間3千人を救えるとありました。結構な数の死刑が執行されていたことがうかがえます。右足を切られるのも相当キツいと思うのですけど、それでも死刑よりはマシでしょうか?

恩徳と刑罰とを併用することの重要性や、そのバランスなどについては当時からたびたび議論されていたようです。この問題は現代にも通ずるところがあり、非常に興味深いものでした。

また、『三国志』(魏書・管寧伝〈かんねいでん〉)に付された「胡昭伝(こしょうでん)」によると、「胡昭は隷書が巧みで、鍾繇・邯鄲淳(かんたんじゅん)・衛覬(えいき)・韋誕(いたん)と並ぶ名声があった」といいます。彼らの書簡の筆跡は手本にされたそうなので、鍾繇は書の分野でも高名だったのですね。

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