司馬岐(しばき)

【姓名】 司馬岐(しばき) 【あざな】 ?

【原籍】 河内郡(かだいぐん)温県(おんけん)

【生没】 ?~?年(35歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・司馬芝伝(しばしでん)』に付された「司馬岐伝」あり。

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難事案を1日で解決の実力も、寵臣を非難して自ら辞職

父は司馬芝。母は不詳だが、董昭(とうしょう)の姪だという。息子の司馬肇(しばちょう)は跡継ぎ。

司馬岐は死去(時期は不明)した司馬芝の跡を継ぎ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。河南丞(かなんじょう)から廷尉正(ていいせい)に転じ、陳留国相(ちんりゅうこくしょう)に昇進する。

このころ梁郡(りょうぐん)で拘置されている囚人がおり、事件の関係者が大勢いたため数年経っても判決は出なかった。詔(みことのり)により、この裁判が司馬岐の管轄下にある県へ移される。

県ではあらかじめ刑具を用意したいと申し出たが、司馬岐は言った。

「いま数十人の囚人がいるが、すでにごまかしも効きにくくなっている。そのうえこれまでの苦痛でやりきれなくなっているから、容易に事実は判断できよう。これ以上、牢獄に長くいたい道理があろうか?」

こうして囚人を引き出し問いただしたが、みな隠したりごまかしたりせず、わずか1日で決着がついた。そのうち司馬岐は廷尉に抜てきされる。

当時は大将軍(だいしょうぐん。238~249年)の曹爽(そうそう)が権力を握り、尚書(しょうしょ)の何晏(かあん)と鄧颺(とうよう)らが彼の手足となって動いていた。

あるとき圭泰(けいたい)が、曹爽の考えに逆らう言葉を吐いたかどで取り調べを受け、廷尉に拘置される。鄧颺は尋問に同席したうえ、重い刑に処そうとした。

司馬岐は鄧颺の態度を非難し、個人的な怒りの感情のまま振る舞い、無実の者を陥れようとしていると指摘。鄧颺は恥ずかしさと腹立ちのあまり退席する。

だが司馬岐も、このまま在任すればとがめを受けると心配し、病気を理由に辞職。

その後、家に籠もって1年も経たないうちに死去(時期は不明)した。このとき35歳だったという。息子の司馬肇が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

父の司馬芝の真っすぐなところを、よく受け継いだ感じのする司馬岐。

生没年がはっきりしないのに、享年だけ記してあるのが微妙ですけど……。辞職から1年しないうちに亡くなったのなら、病気とまでは言えずとも、以前から体調が優れなかったのかもしれません。

なお、息子の司馬肇は晋代(しんだい)でも活躍。縁戚関係が遠かったようなので王とはいかないものの、晋の帝族には違いないですからね。

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