司馬芝(しばし)

【姓名】 司馬芝(しばし) 【あざな】 子華(しか)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)温県(おんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・司馬芝伝』あり。

強者の頼みは受け付けず

父母ともに不詳。司馬朗(しばろう)や司馬懿(しばい)らの兄弟は族弟(いとこ。一族の同世代の年少者)にあたる。息子の司馬岐(しばき)は跡継ぎ。

司馬芝は若いころ学生となり、動乱を避けて荊州(けいしゅう)へ行った。道中の魯陽山(ろようざん)で賊と遭遇し、みな年寄りと幼弱の者を捨てて逃げたが、司馬芝だけは老母を守って動かなかった。

司馬芝が地面に頭を打ちつけ懇願する姿を見て、賊のほうも孝子を殺すのは道義に外れるとして手を出さなかった。こうして司馬芝は母を連れ、南方に10余年滞在。自ら農耕に勤しみ、節義を守り通したという。

208年、曹操(そうそう)が荊州を平定すると、司馬芝は「菅県長(かんけんのちょう)」に任ぜられる。このころ天下は立て直されたばかりで、法律を無視する者が多かった。

済南郡(せいなんぐん)の「主簿(しゅぼ)」を務めていた劉節(りゅうせつ)は古い家柄の親分で、1千余軒の子分を従えており、彼らは郡から出れば盗賊になり、郡にいると役人の統治を乱していた。

着任からしばらくして、司馬芝は劉節の子分である王同(おうどう)らを兵士に取り立てる。しかし劉節は王同らをかくまう一方、督郵(とくゆう。官名)に働きかけ、規定の兵士を集められなかったかどで県の責任を追及させた。

やむなく県の掾史(えんし。属官)は、自分が王同の代わりに行くことを願い出る。そこで司馬芝は早馬で郡へ公文書を送り、劉節の罪状を詳しく伝えた。

済南太守(せいなんたいしゅ)の郝光(かくこう)は日ごろから司馬芝を敬い信頼していたため、すぐに劉節を王同の代わりに行かせる。青州(せいしゅう)では司馬芝のことを、「郡の主簿(劉節)を兵卒にした」とはやした。

のち司馬芝は「広平県令(こうへいけんのれい)」に転ずる。

征虜将軍(せいりょしょうぐん)の劉勲(りゅうくん)は曹操の恩寵を受け高い地位にあり、威張った態度を取っていた。さらに彼は司馬芝の同郷でもあって、子分や子弟が鉅鹿郡(きょろくぐん)の境界でしばしば法律を犯した。

劉勲の出身については「琅邪郡(ろうやぐん)」だという記事もありイマイチはっきりせず。

劉勲は姓名を記さない手紙を送り、罪を大目に見てくれるよう司馬芝に依頼することが多かった。だが司馬芝は返事を出さず、すべて法律どおりに処分する。その後、劉勲は不法のかどで処刑され、関係のあった者もみな処罰されたが、かえって司馬芝は称賛された。

司馬芝は「大理正(だいりせい)」に昇進。

このころお上の練り絹を盗み、それを共用の便所に置いた者がおり、役人が女工を逮捕し投獄する。

司馬芝は盗品が見つかっていることに触れ、もし鞭(むち)打ちに耐えきれなければ、女工が無実の罪に服すことも考えられると述べたうえ、簡明で民が従いやすいものこそ有徳者の教化であると、容疑者の女工を許すことで従いやすい教化を尊重するよう進言。曹操はこの進言を容れた。

司馬芝は「甘陵太守(かんりょうのたいしゅ)」「沛太守(はいのたいしゅ)」「陽平太守(ようへいのたいしゅ)」を歴任し、いずれの地でも治績を上げる。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には中央に戻って「河南尹(かなんのいん)」を務めたが、強者を抑え弱者を助け、個人的な依頼などは受け付けなかった。

あるとき部下の循行(じゅんこう。官名)が、門幹(もんかん。官名)に簪(しん。冠を留める笄〈こうがい〉)を盗んだという嫌疑をかけた。門幹は、自分の持っていた簪と盗まれた簪が同じ物ではないと弁明したものの、役人に逮捕され裁判となった。

すると司馬芝は、およそ物には似通っていて見分けがつかないものがあるとして、実際に簪が循行の物だったとしても、どうしてひとつの簪ぐらいを惜しみ、軽々しく同輩を傷つけるようなことをするのだと言い、これ以上この件を追及しないよう諭した。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、司馬芝は「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられる。

このころ特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の曹洪(そうこう)の乳母だった当(とう)が、臨汾公主(りんふんこうしゅ。曹叡?の娘)の侍女とともに無澗山(ぶかんざん)の神に仕えたとして投獄された。

太皇太后(たいこうたいごう)の卞氏(べんし)は黄門(こうもん。宦官〈かんがん〉)の呉達(ごたつ)を遣わし、司馬芝の役所に彼女らを救うべく宣旨を伝えさせる。

ところが司馬芝は聞き入れず、洛陽(らくよう)の獄に命じて審理を済ませ、独断で処刑を執行。そのあと事の次第を上奏し、自身の処罰を乞うた。しかし曹叡は自ら返書をしたため、司馬芝の対応を評価する。

司馬芝は11年にわたり「河南尹」を務め、たびたび法制の不備について意見を述べた。高官らとの交際でも真っすぐな態度を貫いたが、たまたま諸王が入朝した際、都の住民と交渉を持った者がいたため監視不行き届きの罪で免職となった。

のち「大司農(だいしのう)」として起用される。

当時の農政担当の諸官は、それぞれが役人や庶民を勢力下に置き、末業(商工業)によって利益を得ることに努めていた。司馬芝は上奏し、本業(農業)を重視して末業を抑えるよう訴え曹叡の容れるところとなった。

やがて司馬芝が死去(時期は不明)すると、息子の司馬岐が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、「司馬芝は上役から呼ばれて何か質問を受けるとき、いつもあらかじめ掾史と会っておき、質問の意図を考えていた。そのため彼が賛成や反対をする際の状況は、すべて事前に予想した通りのものだった」ということです。

また、「司馬芝は誠実な人柄だったが、品行の正しさを誇ることはなかった。賓客との議論でも、彼の意に反した者をやり込めはしたが、退席後は非難の言葉を吐かなかった。司馬芝は在官のまま亡くなったが、家には財産が残されていなかった」とも。

これらを踏まえ陳寿(ちんじゅ)は「魏の時代から今(西晋〈せいしん〉)まで、『河南尹』となった者で司馬芝に及ぶ者はいない」と評していました。

むやみに威張らず、死後に余分な財産を残さない。誠実な人柄に加え、厳格さと弱者への思いやりを兼ね備えた人物でした。

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