許允(きょいん)A ※曹芳(そうほう)配下の鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)

【姓名】 許允(きょいん) 【あざな】 士宗(しそう)

【原籍】 河間郡(かかんぐん)高陽県(こうようけん)

【生没】 ?~254年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。

軽率な反応を見せたため、司馬師(しばし)に目を付けられる

父は許拠(きょきょ)だが、母は不詳。兄がいたことがうかがえるものの、名は出てこない。妻の阮氏(げんし)との間に、許奇(きょき)と許猛(きょもう)というふたりの息子を儲けた。

許允の家は代々官僚を務めた。彼は同郡の崔賛(さいさん)とともに冀州(きしゅう)で名を上げ、召されて軍に入る。

曹叡(そうえい)の時代(226~239年)に「尚書選曹郎(しょうしょせんそうろう)」を務め、袁侃(えんかん)の同僚となった。ここでふたりとも職務上の罪を犯して逮捕され、投獄される。厳しい詔(みことのり)が下り、死刑に処せられることが確実とみられた。

すると許允が袁侃に言った。

「きみは功臣の息子だから、特別な審議(八議)を受けられるはずだ。死刑の心配はないだろう」

袁侃は許允の言いたいことを察し、重罪を引き受けてやった。

袁侃は袁渙(えんかん)の息子。

許允は刑期を終え再び官吏となり、地方へ出て「郡守(ぐんしゅ。太守〈たいしゅ〉)」を務める。そして昇進を重ね、「侍中(じちゅう)」「尚書」「中領軍(ちゅうりょうぐん)」などを歴任した。

254年2月、親しくしていた中書令(ちゅうしょれい)の李豊(りほう)らが逮捕されたと聞くと、許允は大将軍(だいしょうぐん)の司馬師に会いに行こうとする。

ところが、急いで家を出たものの決心がつかず、袴(こ。ズボン)を取りに戻っている間に李豊らの逮捕は終わっていた。司馬師は許允のあわてぶりを聞き不審を抱く。

このころ鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)の劉静(りゅうせい)が死去し、許允が後任(「鎮北将軍・仮節〈かせつ〉・督河北諸軍事〈とくかほくしょぐんじ〉」)となる。許允は「節(権限を示すしるし)」と割り符を受け取った後、自宅を出て妻の実家で寝泊まりしていた。

そこへ司馬師から手紙が届き、こう述べてあった。

「『鎮北将軍』の仕事は多くないが、それでも一方の総指揮官である。きみは美しい太鼓を鳴り響かせ、朱色の旗を打ち立てて郷里の州を通るのだから、これこそ『故郷に錦を飾る』というものだ」

許允は内心で大いに喜び、朝廷に上言し、太鼓や笛、旗などを新調しようとする。彼の兄の息子は、かねて叔父が司馬師から不審の目で見られているといううわさを聞いていたので、こう忠告した。

「すぐに赴任なさってください。旗など取り換える必要がありましょうか」

だが、許允は聞き入れなかった。

曹芳(そうほう)は許允の出発にあたり、詔を下し群臣を招集する。やがて散会となったが、ちょうど担当官吏から上奏があった。

「以前、許允は厨房(ちゅうぼう)の金銭や穀物を横領し、俳優や属官に与えておりました」

そのため逮捕され、廷尉(ていい)の取り調べを受ける。死刑を免ぜられて楽浪郡(らくろうぐん)へ流されることになった。

こうして秋に流刑となったが、妻子は同行を許されず。その冬、許允は流刑地へ向かう途中で亡くなった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯尚伝〈かこうしょうでん〉)に付された「夏侯玄伝」とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。許允は世渡り上手だったのでしょうけど、考え方や行動がだいぶ軽かったようですね。

一方で妻の阮氏は非常に賢い女性だったらしく、「夏侯玄伝」の裴松之注に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には、夫や息子たちに適切な助言をしたことが見えました。むしろ彼女の個別記事を作るべきだったか、という印象を受けました。

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