薛綜(せつそう)

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【姓名】 薛綜(せつそう) 【あざな】 敬文(けいぶん)

【原籍】 沛郡(はいぐん)竹邑県(ちくゆうけん)

【生没】 ?~243年(?歳)

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・薛綜伝』あり。

文才も持ち合わせていた学者

父母ともに不詳。薛珝(せつく)と薛瑩(せつえい)という息子がいた。

薛綜は斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん。田文〈でんぶん〉)の子孫にあたるという。若いころ一族の者を頼って交州(こうしゅう)へ難を避けたことがあり、ちょうどその地にいた劉熙(りゅうき)の下で学ぶ。

211年、士燮(ししょう)が孫権(そんけん)に従うようになると、薛綜は孫権に召され「五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)」に任ぜられ、のち「合浦太守(ごうほのたいしゅ)」や「交阯太守(こうしたいしゅ。交趾太守)」を務めた。

そして、交州刺史(こうしゅうしし)の呂岱(りょたい)に付き従って州内の平定にあたり、海を渡り九真(きゅうしん)まで進出。南方での任務を終え都に戻ると「謁者僕射(えっしゃぼくや)」を代行した。

220年、歩騭(ほしつ)に代わり呂岱が「交州刺史」として着任した。

231年、呂岱が交州から召し還され長沙(ちょうさ)に駐屯することになると、薛綜は後任の人選を不安視し、長文の上疏を行い辺境地帯の統治の重要性を訴えた。

この年、建昌侯(けんしょうこう)の孫慮(そんりょ)が「鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)」となり、半州(はんしゅう。九江〈きゅうこう〉付近)に将軍府を置く。薛綜はその「長史(ちょうし)」に任ぜられ、役所の事務を統括する一方、自由に書物を読んで学ぶことも許された。

翌232年、孫慮が20歳で急死すると、薛綜は中央へ戻り「賊曹尚書(ぞくそうしょうしょ)」を代行し、やがて「尚書僕射」に昇進した。

この年、公孫淵(こうそんえん)が呉に帰属すると伝えてくると、孫権は張弥(ちょうび)と許晏(きょあん)らを遼東(りょうとう)へ遣わし、公孫淵を「燕王(えんおう)」に封じようとした。

ところが翌233年、孫権の派遣した張弥や許晏らは斬られてしまい、あろうことか公孫淵は彼らの首を魏(ぎ)へ送り届ける。

激怒した孫権が自ら公孫淵を討伐すると言いだすと、薛綜は、その危険と無益さを説くべく上疏して諫めた。薛綜以外の群臣からも多数の諫言があったため、孫権は遼東への遠征を思いとどまった。

ある年の正月、薛綜は孫権の詔(みことのり)を受け皇祖に対する祝詞を起草したが、これまでに使われた文言を用いてはならない、とも命ぜられる。彼は急いで祝詞を書き上げたが、その文辞は真心のこもった鮮やかなものだった。

これを見た孫権から、さらに2編の祝詞を作り、3編をひと組とするよう言われたので、薛綜はもう2編の祝詞を起草した。こちらの文辞もみな目新しいものばかりだったため、人々の称賛を得たという。

240年、薛綜は「選曹尚書(せんそうしょうしょ)」に転ずる。

242年、薛綜は「太子少傅(たいししょうふ)」に任ぜられたものの、これまで通り「選曹尚書」を兼任した。

翌243年、薛綜は死去したが、詩・賦(ふ)・議論文など数万言の著作があり、これらは『私載(しさい)』という文集にまとめられた。このほか「五宗図述(ごそうずじゅつ)」や「二京解(にけいかい)」といった著作もあり、それぞれ広く世に伝わった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝に以下の話が見えました。

蜀(しょく)の使者として張奉(ちょうほう)が来訪したとき、孫権の御前で尚書の闞沢(かんたく)の姓名を採り上げ笑い物にしたが、闞沢自身は言い返すことができなかった。

薛綜は酒をついで回り、張奉に言った。

「『蜀』とは何なのでしょう? 『犬』がいると『獨(ひと)り』になり、いないと『蜀』になります。『目』を横にして身を『苟(かが。句)め』、その腹には『虫』がおります」

すると張奉が応えた。

「では、きみの仕える呉についても聴かせてもらえないか?」

薛綜は即答した。

「『口』がないと『天』になり、あると『呉』になります。万邦に君臨する天子(てんし)の都なのです」

これに呉の群臣は大いに沸き、張奉は返す言葉もなかったと。薛綜は臨機応変の受け答えを得意としていたようですね。

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