虞聳(ぐしょう)

【姓名】 虞聳(ぐしょう) 【あざな】 世龍(せいりょう)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・虞翻伝(ぐはんでん)』に付された「虞聳伝」あり。

すでに名の通った者を推挙するのは無意味

父は虞翻だが、母は不詳。虞聳自身は六男。虞シ(ぐし。氵+巳。四男)と虞忠(ぐちゅう。五男)は兄で、虞昺(ぐへい。八男)は弟。合わせて11人兄弟だったという。

虞聳は淡泊な人柄で、その振る舞いが礼にかなっていた。呉では清官(せいかん。名誉職)を歴任し、のち晋(しん)に仕えて「河間国相(かかんこくのしょう)」を務めた。河間王はかねてよりその名を聞き知っていたため、彼を敬い厚遇した。

虞聳は有能な人物を推挙する際、まだ名が知られておらず、後ろ盾のないような家柄の者を対象とした。彼のやり方に王岐(おうき)が異を唱え、高士というのは必ず群を抜いた才能を示すものだから、有能な人物が無名であるはずがないと主張する。

これを聞いた虞聳は、族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)の虞察(ぐさつ)に宛てた手紙の中でこう述べた。

「現在の人材登用は、田舎にあってまだ人々から認められていない者を招いたり、数多くの中から才能のある者を捜すことがない。褒めたたえるのはすでによい評価を受けている者ばかりで、けなすのもすでに悪い評価を受けている者ばかりだ。このようなありさまだから、いつも私はため息をつくことになるのだ」

また虞聳は、人々が葬儀や祭祀(さいし)を盛大に執り行う風潮を嫌う。そこで弟の虞昺が死去(時期は不明)したとき、霊前に少牢(しょうろう。羊と豕〈イノコ〉)を捧げ、会葬者にも酒とご飯を出すだけにとどめた。以後、彼の一族はみなこのやり方に従ったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』によるもの。

なお本伝では、虞聳が「越騎校尉(えっきこうい)」「廷尉(ていい)」「湘東太守(しょうとうのたいしゅ)」「河間太守(かかんのたいしゅ)」を歴任したことが見えますが、詳しい事績についてはわかりませんでした。

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