虞昺(ぐへい)

【姓名】 虞昺(ぐへい) 【あざな】 世文(せいぶん)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・虞翻伝(ぐはんでん)』に付された「虞昺伝」あり。

呉の滅亡後は晋(しん)の「済陰太守(せいいんのたいしゅ)」を務める

父は虞翻だが、母は不詳。虞昺自身は八男。虞シ(ぐし。氵+巳。四男)・虞忠(ぐちゅう。五男)・虞聳(ぐしょう。六男)はみな兄。合わせて11人兄弟だったという。

虞昺は若いころから気概があり、呉に仕えて「黄門郎(こうもんろう)」を務め、主君の下問に適切な応答をすることにより認められ、昇進を重ねて「尚書(しょうしょ)・侍中(じちゅう)」となった。

279年、晋が呉へ大攻勢を仕掛けると虞昺は「持節(じせつ)」となり、武昌(ぶしょう)から上流の諸軍の総指揮にあたる。

その後、呉軍が相次いで敗れると、虞昺は節(権限を示すしるし)・蓋(きぬがさ)・印綬(いんじゅ)を(呉の)朝廷に返還したうえ晋に帰順した。

晋では「済陰太守(せいいんのたいしゅ)」に任ぜられたが、かの地の豪族を抑えて弱者を助け、大いに威風を轟(とどろ)かせたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』によるもの。本伝では虞昺が「廷尉(ていい)」「尚書」「済陰太守」を歴任したことが見えますが、詳しい事績についてはわかりませんでした。

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