孫闓(そんかい)

【姓名】 孫闓(そんかい) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~258年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫綽(そんしゃく)の息子

父は孫綽だが、母は不詳。孫綝(そんりん)・孫恩(そんおん)・孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)は兄。

257年4月に孫亮(そんりょう)が親政を行って以来、しばしば問責が加えられるようになり、孫綝はひどく不安を感じていた。

孫綝は朱雀橋(すざくきょう)の南に私邸を建て、弟で威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠を蒼龍門(そうりょうもん。建業〈けんぎょう〉の東門)内に置いて宿衛にあたらせた。

長水校尉(ちょうすいこうい)だった孫闓も、兄の孫恩や孫幹とともに、都のいくつかの軍営に配下の軍勢を置いて孫綝を支えた。

258年9月、孫綝は、自身の誅殺を計画した孫亮、および計画に加担した太常(たいじょう)の全尚(ぜんしょう)と将軍の劉丞(りゅうじょう)を押さえるべく動いた。

孫亮が廃されて、翌10月に孫休(そんきゅう)が即位すると、ほかの兄弟とともに孫闓も昇進し、亭侯(ていこう)に封ぜられた。

ところが同年12月、孫休らが密かに進めていた孫綝誅殺計画が発動する。

孫綝は臘会(ろうかい。祖先および百神の祭祀〈さいし〉)の席で捕縛され、そのまま処刑された。孫綝の一族は皆殺しにされ、孫闓は船で魏(ぎ)へ降ろうとしたものの、追っ手によって殺害された。

管理人「かぶらがわ」より

孫綝の兄弟はみな侯に封ぜられ、一時は主君をしのぐ権勢を振るったものの、結局は皆殺しになってしまいました。

兄弟5人のうちで、孫恩と孫拠だけは順番がはっきりしませんでした。記事を見た感じでは孫恩のほうが兄だと思うのですけど、訳書に載っていた系譜では孫拠のほうが兄になっていました。

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