劉馥(りゅうふく)

【姓名】 劉馥(りゅうふく) 【あざな】 元穎(げんえい)

【原籍】 沛国(はいこく)相県(しょうけん)

【生没】 ?~208年(?歳)

【吉川】 第160話で初登場。
【演義】 第048回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉馥伝』あり。

揚州(ようしゅう)の教化や開発に尽力し民の支持を得る

父母ともに不詳。息子の劉靖(りゅうせい。劉静)は跡継ぎ。

劉馥は動乱を避け揚州へ赴いた。建安(けんあん)年間(196~220年)の初め、袁術(えんじゅつ)配下の将軍(しょうぐん)の戚寄(せきき)と秦翊(しんよく)を説き、軍勢をひきいて曹操(そうそう)に鞍(くら)替えさせる。喜んだ曹操は司徒(しと)の役所に命じて劉馥を召し寄せ、「掾(えん)」として登用。

「司徒掾」ということでいいのか、それとも「司空掾(しくうのえん)」だったのか、イマイチよくわからず。

200年、孫策(そんさく)に任命された廬江太守(ろこうたいしゅ)の李述(りじゅつ。李術)が、揚州刺史(ようしゅうしし)の厳象(げんしょう)を攻めて殺害。すると廬江の梅乾(ばいけん)・雷緒(らいしょ)・陳蘭(ちんらん)たちが、数万の仲間を集めて長江(ちょうこう)や淮河(わいが)一帯の郡県を破壊した。

このころ曹操は袁紹(えんしょう)と争っていたため、上奏して劉馥を「揚州刺史」とし、東南のことを任せる。劉馥は単騎で合肥(ごうひ)へと急行。州庁を置いて雷緒らを手なずけ、地域を安定させると相次いで献上品が届くようになった。

数年のうちに恩恵や教化が行き渡り、民も彼の政治を喜んだので、江や山を越えて身を寄せる流民は5ケタの数に上る。

劉馥は学生を集めて学校を建て、屯田を拡大した。また、芍陂(しゃくひ)・茄陂(かひ)・七門(しちもん)・呉塘(ごとう)の諸堤防を築いたり修理したりして灌漑(かんがい)の便を図り、官民の蓄積につなげる。

さらに、城壁や土塁を高くして木や石を数多く積み上げたほか、数千万枚のむしろを編ませ、数千斛(ごく)の魚油を蓄えて戦に備えた。

208年、劉馥が死去し、息子の劉靖が跡を継ぐ。

215年、孫権(そんけん)が10万の軍勢で合肥を攻め、100余日にわたり包囲する。連日の雨に城壁は崩れかかったが、備えてあったむしろで覆い、夜は魚油を燃やして城外を照らし、敵軍の動きを監視しながら防いだ。

結局、孫権は撤退に追い込まれ、揚州の民はいよいよ劉馥を追慕したという。そして、彼が築かせた堤防は後々まで役に立った。

管理人「かぶらがわ」より

215年に孫権が合肥から撤退した際、張遼(ちょうりょう)の急襲を受けて危うく討たれそうになった話は有名ですけど、その陰に生前の劉馥の備えがあったとは……。

敵を華々しく討ち破るような派手さはなくとも、学校の建設、城壁や堤防の整備など、より身近な暮らしに関わる功績は、長く民から忘れられないものなのですね。

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