馬謖(ばしょく) ※あざなは幼常(ようじょう)

【姓名】 馬謖(ばしょく) 【あざな】 幼常(ようじょう)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)宜城県(ぎじょうけん)

【生没】 190~228年(39歳)

【吉川】 第169話で初登場。
【演義】 第052回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・馬良伝(ばりょうでん)』に付された「馬謖伝」あり。

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諸葛亮(しょかつりょう)の信愛を受けるも街亭(がいてい)で大敗

父母ともに不詳。馬良は兄で、ほかに兄が3人いたと思われる。

馬謖は荊州従事(けいしゅうじゅうじ)となり、劉備(りゅうび)に従って蜀へ入った後、緜竹県令(めんちくけんれい)、成都県令(せいとけんれい)、越嶲太守(えっすいたいしゅ)を歴任する。

馬謖は並外れた才能を備えており、軍事や計略を好んで論じたため、丞相(じょうしょう)の諸葛亮から特に高く評価された。

223年、劉備は臨終の際、諸葛亮にこう言った。

「馬謖には言葉ほどの実力はなく、大事に用いてはならない。きみはこのことを心に留めておいてほしい」

ところが、後に諸葛亮は馬謖を参軍(さんぐん)として起用し、昼夜を問わず語り合うようになった。

228年、諸葛亮が軍勢をひきいて祁山(きざん)に向かうと、魏延(ぎえん)や呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)ら老練な将軍ではなく、馬謖を先鋒に抜てきする。

しかし馬謖は、街亭で魏(ぎ)の張郃(ちょうこう)に撃破され、配下の兵士は散りぢりになってしまう。諸葛亮も進軍を諦めざるを得なくなり、漢中(かんちゅう)へ引き返した。

馬謖は投獄された末に死去。このとき39歳だった。諸葛亮は彼の死に涙したという。

管理人「かぶらがわ」より

「泣いて馬謖を斬る」の故事成語で有名な馬謖ですけど、本伝からは彼の死の実相がつかめません。「謖下獄物故、亮為之流涕」という、何だか微妙な書かれ方にとどめられています。

これに関連して『三国志』(蜀書・諸葛亮伝)には、馬謖が街亭で張郃と戦い、諸葛亮の命令に従わずに大敗を喫したことや、諸葛亮の漢中帰還後、馬謖を処刑して兵士たちに謝罪したことが見えます。

さらに『三国志』(蜀書・王平伝〈おうへいでん〉)にも、馬謖が王平の重ねがさねの諫言を退け、街亭の山上に陣を構えて大敗を喫したことや、諸葛亮の帰還後、将軍の馬謖・張休(ちょうきゅう)・李盛(りせい)を処刑し、黄襲(こうしゅう)らの配下の兵士を取り上げたことが見えました。

また『三国志』(蜀書・向朗伝〈しょうろうでん〉)には、(同郷である)向朗は日ごろから馬謖と仲が良かったため、馬謖が(街亭の大敗後に)逃走したとき、事情を知りつつ黙認したことや、諸葛亮に向朗が免官され、成都へ送り還されたことが見えました。

これらは裴松之注(はいしょうしちゅう)ではなく、陳寿(ちんじゅ)の本文に書かれているもの。なので、馬謖は街亭の大敗後に逃走し、捕らえられて投獄され、責任を問われて処刑された、というのが本当のところのようです。

街亭の山上への布陣が馬謖の発案だったのかもはっきりしませんが、とにかく先鋒を任せたのは諸葛亮ですから、彼のほうに、より大きな責任があったと言えます。

馬謖に名誉挽回の機会を与える手は、本当になかったのでしょうか? このケースでは、法を超えた配慮があってもよかったのではないかと感じました。

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