潘璋(はんしょう) ※あざなは文珪(ぶんけい)

【姓名】 潘璋(はんしょう) 【あざな】 文珪(ぶんけい)

【原籍】 東郡(とうぐん)発干県(はっかんけん)

【生没】 ?~234年(?歳)

【吉川】 第136話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・潘璋伝』あり。

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関羽(かんう)らの捕縛で大功を立てる

父母ともに不詳。潘平(はんぺい)という息子がいた。

潘璋は孫権(そんけん)が陽羨県長(ようせんけんちょう)を務めていたとき、目通りを願い出て配下に加わる。

彼は気ままで酒を好んだものの、貧しかったため、いつもツケで酒を買う。掛け取りが家まで押しかけると、いずれ金持ちになったら返すと言っていた。

孫権が陽羨県長に任ぜられたのは196年のこと。

孫権は、潘璋には見どころがあるとしてかわいがり、彼に兵士を募らせて100余人が集まると、そのまま部隊を指揮させる。

潘璋は山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の不服従民の討伐で功を立て、別部司馬(べつぶしば)に任ぜられた。

後に呉県の中央市場の刺奸(しかん。監督官)を務めたが、潘璋の働きで市場から盗賊が姿を消す。このことで彼の名が知られるようになり、西安県長(せいあんけんちょう)に昇進した。

西安県は劉表(りゅうひょう)の手勢の侵入に悩まされていたが、潘璋の赴任後はそうした動きも見られなくなる。

隣の建昌県(けんしょうけん)で反乱が起こると、潘璋はこの県の統治を任されて、武猛校尉(ぶもうこうい)の官位を加えられた。

潘璋は不服従民の討伐を進め、ひと月ほどですべて平定してしまう。離散した者を800人集めると、彼らをひきいて建業(けんぎょう)に戻った。

215年、潘璋は孫権の合肥(ごうひ)遠征に参加する。

このとき撤退の途中で曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)の急襲を受けたが、孫権側の備えは不十分だったため、陳武(ちんぶ)が戦死したうえ、宋謙(そうけん)や徐盛(じょせい)の手勢も逃げ出すありさま。

ここで潘璋が後陣から駆けつけるや、逃げかけている兵士ふたりを斬る。これを見た孫権軍の兵士はみな戻って戦った。

孫権は、潘璋の勇猛さを高く評価して偏将軍(へんしょうぐん)に任じ、百校(ひゃくこう)の役を兼ねさせ、半州(はんしゅう。九江〈きゅうこう〉付近)に駐屯させた。

219年、孫権が荊州(けいしゅう)の関羽討伐に乗り出すと、潘璋は朱然(しゅぜん)とともに敵の退路を断つべく臨沮(りんしょ)まで進み、夾石(きょうせき)に軍勢を留める。

やがて潘璋配下の馬忠(ばちゅう)が、関羽と息子の関平(かんぺい)、さらに都督(ととく)の趙累(ちょうるい)らを捕らえた。

孫権は大いに喜び、宜都郡(ぎとぐん)から巫(ふ)と秭帰(しき)の両県を分割して固陵郡(こりょうぐん)を新設し、潘璋を固陵太守(こりょうたいしゅ)・振威将軍(しんいしょうぐん)に任じたうえ、溧陽侯(りつようこう)に封じた。

その後、甘寧(かんねい)の死去(時期は不明)に伴い、潘璋が甘寧配下の軍勢の指揮を引き継ぐ。

222年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が夷陵(いりょう)まで侵出すると、潘璋は陸遜(りくそん)と力を合わせて防戦にあたり、潘璋の配下が蜀将の馮習(ふうしゅう)らを討ち取るなど、多数の敵兵を死傷させた。

この功により、潘璋は平北将軍(へいほくしょうぐん)・襄陽太守(じょうようたいしゅ)に任ぜられた。

この年、魏(ぎ)の曹真(そうしん)や夏侯尚(かこうしょう)らが南郡(なんぐん)を包囲すると、先鋒から3万人を分けて浮橋を作らせ、百里洲(ひゃくりす。長江〈ちょうこう〉の中州)に軍営を設けた。

救援に来た諸葛瑾(しょかつきん)や楊粲(ようさん)も対応を決めかねたが、潘璋は上流から大きな筏(いかだ)を流し、これに火を放って敵の浮橋を焼き払おうと考える。

筏ができ上がり、長江の増水を待って流そうとしていたとき、この動きを察した魏軍は引き揚げた。後に潘璋は長江を下り、陸口(りくこう)の守備にあたる。

229年、孫権が帝位に即くと、潘璋は右将軍(ゆうしょうぐん)に任ぜられた。

234年、潘璋は死去したが、息子の潘平は素行が悪く、会稽郡(かいけいぐん)へ強制移住させられる。それでも潘璋の妻は建業に住むことを許され、田宅や租税免除の小作人50戸を賜ったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、潘璋は粗暴ながら、配下の者によく禁令を守らせたそうです。

また、功を立てることに熱心で、彼の指揮する数千の兵馬が、まるで1万の兵馬のごとき働きを見せたのだとも。

加えて利に聡(さと)い一面も持ち合わせ、ある討伐が一段落すると自軍の管理する市場を開設し、ほかの軍へ不足品を供給する役割も担ったという。

一方で潘璋はぜいたくを好み、晩年にはそうした傾向がますます強まり、身分不相応な衣服を用いるようになります。

それどころか、役人や兵士の中に比較的豊かな者がいれば、殺害して財物を奪うなど、たびたび法を犯しました。

担当官吏がこの件を採り上げ、上奏したこともありましたが、孫権は潘璋の功績を考慮し、いつも不問に付していたのだと。

潘璋が大功を立てたのは間違いないですけど、さすがにこれは、お目こぼしの度が過ぎるのでは……。

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