孟光(もうこう) ※あざなは孝裕(こうゆう)

【姓名】 孟光(もうこう) 【あざな】 孝裕(こうゆう)

【原籍】 河南郡(かなんぐん)洛陽県(らくようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第080回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・孟光伝』あり。

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あえて直言を繰り返し、嫌われ役に徹する

父母ともに不詳。

孟光は、後漢(ごかん)で太尉(たいい)まで昇った孟郁(もういく)の一族で、霊帝(れいてい。在位168~189年)の末年に講部吏(こうぶり)となった。

190年、献帝(けんてい)が董卓(とうたく)の意向に従って長安(ちょうあん)への遷都を決めると、孟光は蜀へ逃げ込み、劉焉(りゅうえん)や劉璋(りゅうしょう)から客礼をもって遇された。

孟光は博学で古事にも通じており、読んでいない書物などないほどだったが、特に三史の研究に注力し、漢の古い制度にも詳しかった。

三史は『史記(しき)』『漢書(かんじょ)』『東観漢記(とうかんかんき)』のこと。

そして『公羊春秋(くようしゅんじゅう)』を好み、『左氏春秋(さししゅんじゅう)』に批判的な立場を取る。来敏(らいびん)と両伝の意義について争うたび、いつも孟光は大声を上げたという。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降すと、孟光は議郎(ぎろう)に任ぜられ、許慈(きょじ)らとともに諸制度の整備にあたる。

223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと、孟光は符節令(ふせつれい)、屯騎校尉(とんきこうい)、長楽少府(ちょうらくしょうふ)を経て大司農(だいしのう)に昇進。

246年、劉禅が大赦を行うと、孟光は満座の中で大将軍(だいしょうぐん)の費禕(ひい)を責め、恩赦は世が治まっているときに採るべき政策ではないと述べた。

孟光が他人の痛いところを突くとき、いつもこのようなやり方だったため、重臣たちの心証が悪く、爵位も進まなかった。また、憚(はばか)ることなく直言を繰り返したので、当時の人々から嫌われていたともいう。

後に孟光はある事件に連座して免官され、90余歳で死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

学者にもいろいろなタイプがあると思いますが、孟光は物言う学者でした。

相手を問わずに意見をしまくって嫌われ、爵位が進まなかったともありましたけど……。偏狭に見える心裏には、蜀の行く末を案ずる気持ちが感じられます。

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