徐邈(じょばく)

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【姓名】 徐邈(じょばく) 【あざな】 景山(けいざん)

【原籍】 燕国(えんこく)薊県(けいけん)

【生没】 172~249年(78歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・徐邈伝』あり。

ユーモアのセンスを備えた清廉の士

父母ともに不詳。息子の徐武(じょぶ)は跡継ぎ。

曹操(そうそう)が河北(かほく)を平定すると徐邈は召されて「丞相軍謀掾(じょうしょうぐんぼうえん)」となる。次いで「奉高県令(ほうこうけんのれい)」を代行し、中央へ戻って「東曹議令史(とうそうぎれいし)」となった

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国されると「尚書郎(しょうしょろう)」に転ずる。このころ禁酒令が出されていたが、徐邈はこっそり酒を飲み酔いつぶれてしまう。

校事(こうじ)の趙達(ちょうたつ)に追及されると彼は言った。

「聖人にあたったのだ」

曹操は報告を受け腹を立てたが、度遼将軍(どりょうしょうぐん)の鮮于輔(せんうほ)は進み出て言う。

「日ごろ酔客どもは、酒の清(す)んだものを『聖人』と称し、濁ったものを『賢人』と称しております。徐邈は慎み深い性格ですから、たまたま酔って吐いた言葉でしょう」

結局は法に触れたと判断されたものの、刑罰は免れた。のち徐邈は「隴西太守(ろうせいのたいしゅ)」を経て「南安太守(なんあんのたいしゅ)」に転ずる。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、「譙国相(しょうこくのしょう)」「平陽太守(へいようのたいしゅ)」「安平太守(あんぺいのたいしゅ)」「(潁川〈えいせん〉の)典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)」を歴任。いずれの任地でも評判を上げ「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられた。

曹丕が許昌(きょしょう)に行幸した際、ふと徐邈に尋ねる。

「相変わらず聖人にあたっているのだろうな?」

すると徐邈は答えた。

「むかし(春秋〈しゅんじゅう〉時代)子反(しはん。楚〈そ〉の公子)は穀陽(こくよう。子反に仕えた小姓)によって酔いつぶされ、御叔(ぎょしゅく。魯〈ろ〉の大夫〈たいふ〉)は酒を飲んだため罰を受けたとか」

「臣(わたくし)は彼らと好みが同じなので、懲りずに(聖人に)あたっております。年を経た瘤(こぶ)は『醜』をもって知られますが、臣は『酔』をもって知られているのです」

曹丕は大いに笑い、左右を顧みて言った。

「評判というのは、ゆえなく立つものではないな」

徐邈は「撫軍大将軍軍師(ぶぐんだいしょうぐんぐんし)」に転じた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと徐邈は「涼州刺史(りょうしゅうのしし)」に任ぜられ、「使持節(しじせつ)」として「護羌校尉(ごきょうこうい)」を兼ねる。

228年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)に進み、隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)の3郡(天水〈てんすい〉・南安・安定〈あんてい〉)が魏に背く。徐邈は参軍(さんぐん。官名)と金城太守(きんじょうのたいしゅ)らに南安の賊軍を攻めさせて、これを撃破した。

河右(かゆう。河西〈かせい〉)は雨が少なく、いつも穀物不足に苦しんでいた。徐邈は上奏して武威(ぶい)と酒泉(しゅせん)の塩池を改修し、蛮地で穀物を収穫するよう要請。また広く水田を開き、貧民を募り田作させる。その結果、家々は充足し、倉庫に穀物が満ちあふれたという。

さらに彼は余剰の兵糧を使って金・絹・犬・馬を買い入れ、中央へ提供した。そして、民が持つ武器を少しずつ取り上げ官庫にしまい込む。

仁義によってみなを導くと、学校を建てて訓戒を明らかにし、厚葬を禁じ淫祀(いんし)を絶つ。教化は大いに行き渡り、民も心を寄せた。西域(せいいき)との交通が開かれ、遠方の蛮族が入貢したことについては、みな徐邈の勲功だった。

のち徐邈は羌族の柯吾(かご)を討伐して功を立て「都亭侯(とていこう)」に爵位が進む。封邑(ほうゆう)300戸を賜り、「建威将軍(けんいしょうぐん)」の官位を加えられた。

彼は羌族に関する事件を処理する際、小さな過失は不問に付す。大罪の場合はまず部族の指導者に伝えて納得させたうえ、初めて死刑を執行した。そのため羌族も信頼して従い、彼の威光を恐れたという。

一方、徐邈は賞賜をすべて将兵に分け与えてしまい、家に入れることがなかったので、妻子は衣食にも事欠いた。曹叡はこれを伝え聞き嘉(よみ)し、たびたび彼の家に支給させた。

239年、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐ。

翌240年、徐邈は中央へ召し還されて「大司農(だいしのう)」となり、「司隷校尉(しれいこうい)」に転ずる。百官の尊敬を集めたが、公的な事件に関わり官を去った。のち「光禄大夫(こうろくたいふ)」となる。

248年、「司空(しくう)」に任ぜられたものの、固辞して受けず。

翌249年、徐邈は大夫の身分のまま死去し「穆侯(ぼくこう)」と諡(おくりな)される。このとき78歳だったが、三公の礼をもって葬られ、息子の徐武が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、254年、曹芳の詔(みことのり)により清潔な生き方をした士人が追思された際、徐邈は胡質(こしつ)や田豫(でんよ)と褒賞され、それぞれの家に穀物2千斛(ごく)と銭30万が下賜されています。

徐邈は場合は名声を当て込む行いでないことは明らかですけど……。衣食にも事欠いたという妻子のほうは苦労が絶えなかったのでしょうね。

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