曹志(そうし)

【姓名】 曹志(そうし) 【あざな】 允恭(いんきょう)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~288年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹植(そうしょく)の息子、魏(ぎ)の済北王(せいほくおう)、晋(しん)の鄄城定公(けんじょうのていこう)

父は曹植だが、母は不詳。

232年、曹志は曹植が薨去(こうきょ)したためその跡を継ぎ、済北王に移封された。のちに何度か加増され990戸となった。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書・陳思王植伝〈ちんしおうしょくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『曹志別伝(そうしべつでん)』に、その後の曹志の動向が描かれていました。彼は学問好きで才能があり、品行も良かったそうです。

260年、司馬炎(しばえん)は曹志を中撫軍(ちゅうぶぐん)に任じ、常道郷公(じょうどうきょうこう。曹奐〈そうかん〉)を迎えるため鄴(ぎょう)に遣わします。

265年に司馬炎が魏の禅譲を受け帝位に即くと、改めて曹志を鄄城公(けんじょうこう)に封じたうえ楽平太守(らくへいのたいしゅ)に任じました。

のち曹志は章武太守(しょうぶのたいしゅ)や趙郡太守(ちょうぐんのたいしゅ)を歴任し、散騎常侍(さんきじょうじ)・国子博士(こくしはくし)に昇進。やがて博士祭酒(はくしさいしゅ)に転じます。

282年、司馬炎は同母弟で斉王(せいおう)の司馬攸(しばゆう)を封国に帰藩させるにあたり、その理由づけをしようと考え、太常(たいじょう)に命じて関連する法律を研究させました。

曹志は司馬攸の帰藩に反対し、司馬炎に建言して諫めようとしましたが、内容は甚だ厳しいものでした。この件で司馬炎はひどく腹を立て曹志を免職としましたが、のち再び散騎常侍として用います。

曹志は母の死に遭い、悲哀の限りを尽くして喪に服しましたが、そのため病にかかり、精神の常態を失ってしまいました。そして、288年に死去し定公(ていこう)と諡(おくりな)されています。

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魏の曹氏 人物データ
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