張布(ちょうふ)

【姓名】 張布(ちょうふ) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~264年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫休(そんきゅう)の寵愛を笠に着て専権を振るうも、わが世の春は短し

父母ともに不詳。張惇(ちょうとん)と張恂(ちょうしゅん)は弟。

孫休が琅邪王(ろうやおう)だったとき(252~258年)、張布はその左右の将督(しょうとく)を務め、特に目をかけられた。

258年10月、孫休が、孫綝(そんりん)に帝位を追われた弟の孫亮(そんりょう)に代わって即位する。この際、張布は長水校尉(ちょうすいこうい)から輔義将軍(ほぎしょうぐん)に昇進し、永康侯(えいこうこう)に封ぜられた。

ほどなく孫綝がクーデターを企てていることを察知した孫休は、左将軍(さしょうぐん)の張布とひそかに対策を練る。

張布が輔義将軍から左将軍に昇進した経緯や時期は、よくわからなかった。

張布は将軍の丁奉(ていほう)を仲間に引き入れ、12月の臘会(ろうかい。祖先および百神の祭祀)の席で孫綝を誅殺することに成功した。

この功により張布は中軍督(ちゅうぐんとく)を加官され、弟の張惇が都亭侯(とていこう)に封ぜられ、同じく弟の張恂が校尉に任ぜられた。

262年、孫休は書物の研究に没頭するべく、濮陽興(ぼくようこう)を丞相(じょうしょう)に任じて軍事と行政を委ね、左将軍の張布には宮中の諸官署の取りまとめを命じた。

こうして張布と濮陽興が権力をほしいままにすると、ふたりには礼に外れる行いが目立つようになった。

孫休は、博士祭酒(はくしさいしゅ)の韋曜(いよう。韋昭〈いしょう〉)や博士の盛沖(せいちゅう)をそば近く置き、様々な事柄について語り合いたいと考えたが、このふたりは普段から率直な物言いで知られていた。

張布は、そのような性格のふたりが孫休に近侍すると、自分の悪事が暴かれるのではないかと恐れて反対した。

孫休は張布の思惑を見抜き、鋭い指摘を浴びせて非難した。それでも張布が陳謝したため不愉快な気持ちを抑え、韋曜らを招くことは諦めた。

264年7月、孫休が30歳の若さで崩ずると、たびたび左典軍(さてんぐん)の万彧(ばんいく)から烏程侯(うていこう)の孫晧(そんこう)の聡明さを聞かされていた張布と濮陽興は、孫休に託された皇太子(こうたいし)の孫ワン(そんわん。雨+單)ではなく、孫晧を迎えて帝位に即けた。

同年8月、張布は定策の功により驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・侍中(じちゅう)に昇進した。

だが、孫晧は即位後まもなく本性を現し、粗暴かつ驕慢(きょうまん)な振る舞いを見せて酒色に溺れ、呉(ご)の人々を大いに失望させた。

張布と濮陽興も心中で孫晧を帝位に即けたことを後悔したが、そのうち万彧に讒言され、同年11月の朝会の席で捕らえられて広州(こうしゅう)に配流(はいる)される。

さらに配所への道中、孫晧が別に遣わした使者がふたりを殺害し、その一族も皆殺しにされたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)や『三国志』(呉書・孫晧伝)などによるものです。

琅邪王時代の孫休と親しかったことから、張布は濮陽興と結託して朝政をもっぱらにしましたが、今度は烏程侯時代(258~264年)の孫晧と親しかった万彧の讒言に足をすくわれました。

また、張布のふたりの娘はともに孫晧の寵愛を得ますが、父の死がきっかけとなり悲劇に見舞われます。そちらについては張氏Eの個別記事張氏Fの個別記事をご覧ください。

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