廖化(りょうか)

【姓名】 廖化(りょうか) 【あざな】 元倹(げんけん)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)

【生没】 ?~264年(?歳)

【吉川】 第107話で初登場。
【演義】 第027回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・宗預伝(そうよでん)』に付された「廖化伝」あり。

40年以上の軍歴を誇る将軍(しょうぐん)

父母ともに不詳。

廖化はもとの名を「淳(じゅん。廖淳)」といい、前将軍(ぜんしょうぐん)の関羽(かんう)の「主簿(しゅぼ)」を務めていた。

219年、関羽が荊州(けいしゅう)で敗れると、やむなく廖化は孫権(そんけん)に仕えることになった。だが彼は、どうしても劉備(りゅうび)のもとへ戻りたいと考え、わざと自身の訃報を流して人々を信じ込ませたうえ、老母を連れて西方へ急いだ。

221年、劉備が孫権討伐の大軍をひきい秭帰(しき)まで進んできたところで、廖化は首尾よく合流を果たす。大喜びした劉備から「宜都太守(ぎとのたいしゅ)」に任ぜられた。

223年、劉備が崩ずると廖化は「丞相参軍(じょうしょうさんぐん)」となり、のちに「督広武(とくこうぶ)」となった。

さらに昇進を重ねて「右車騎将軍(ゆうしゃきしょうぐん)・仮節(かせつ)」となり、(名目上の)「幷州刺史(へいしゅうのしし)」を兼ね「中郷侯(ちゅうきょうこう)」に封ぜられる。

廖化は果敢で激しい気性の持ち主として知られ、官位は張翼(ちょうよく)と等しく、宗預の上位にあったという。

263年、劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)のトウ艾(とうがい。登+阝)に降伏し、蜀は滅亡。

翌264年、廖化は宗預とともに洛陽(らくよう)へ移ることになったが、道中で病死した。

管理人「かぶらがわ」より

『演義』や『吉川版』における描かれ方とは異なり、(正史の)『三国志』の廖化がらみの記事はあっさりとしたもの。

数多くの戦いをくぐり抜けて高位の将軍にまで昇ったのでしょうけど、そこまでの活躍の詳細はよくわかりませんでした。だからこそ創作の余地が大きく、いろいろな役に充てやすかったのかもしれません。

あと『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』には、238年9月、蜀の陰平太守(いんぺいたいしゅ)の廖惇(りょうとん)が謀反を起こし、魏の守善羌侯(しゅぜんきょうこう)の宕蕈(とうしん)の陣を攻めたことが見えます。

ここに出てくる「廖惇」なる人物も「廖化(廖淳)」のことなのでしょうか? わざわざ劉備のもとへ戻ってきたほどの人ですから、おそらく廖惇とは別人だろうと思うのですけど……。

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