呉綱(ごこう)

【姓名】 呉綱(ごこう) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第111回で初登場。
【正史】 登場人物。

図らずも諸葛誕(しょかつたん)の子孫は残る

父母ともに不詳。

呉綱は前漢(ぜんかん)の「長沙王(ちょうさおう)」だった呉芮(ごぜい。?~前202年)の16代目の子孫にあたるという。

257年5月、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こす。このとき呉綱は配下で「長史(ちょうし)」を務めていたが、命を受け諸葛誕の息子の諸葛靚(しょかつせい)を連れ、援軍要請のため呉(ご)へ赴いた。

翌258年2月、司馬昭(しばしょう)ひきいる魏軍(ぎぐん)により寿春は陥落し、諸葛誕も戦死。のち諸葛靚は呉に仕えたが、呉綱については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・諸葛誕伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』によるものです。

また『世語』には、呉綱にまつわる以下のような逸話がありました。

「曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)の末、呉の住民が長沙王の呉芮の墓を暴き、その敷瓦を使い臨湘(りんしょう)に孫堅(そんけん)の廟(びょう)を建てた。(このとき発掘された)呉芮の容貌は生きているかのようで、着せられていた衣服も朽ちていなかった」

「その後、発掘に加わっていた者が呉綱と出会い、こう言った。『きみは何と呉芮に似ていることか。ただ少し背が低いだけだ』」

「すると呉綱は驚いて言った。『それは私の先祖だ。どこで見たのだ?』。事情を聴いた呉綱は『改葬したか』と尋ね、『すぐに改葬した』との答えを得る。呉芮の没年(前202年)から墓の発掘まで400余年を経ており、呉綱は16代目の子孫であった」

古代へのロマンが搔(か)き立てられる不思議な記事でした。

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コメント

  1. 野津征亨 より:

    こんばんは、お久しぶりです。
    なかなかコメントできずすみません(汗)
    GWですね。どうぞ有意義にお過ごしくださいませ。
    またお伺いさせていただきます。

  2. かぶらがわ より:

    野津さん、こんばんは。

    私も定期的にリンク先を巡回させていただく程度ですから、お互いさまということで。

    今年のGWは特に遠出の予定はありませんので、いつも後回しになる庭の草むしりとか、車庫の片づけなどをしようかと思っています。

    野津さんのGWが楽しい休暇になりますように……。