厳幹(げんかん) ※あざなは公仲(こうちゅう)

【姓名】 厳幹(げんかん) 【あざな】 公仲(こうちゅう)

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)東県(とうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

剣術好きから学問好きへ

父母ともに不詳。

厳幹の出身地の東県に、もともと官吏を出すような名門はなかった。彼は同県の李義(りぎ)と親しく、ふたりとも寒門(権勢のない家柄)の出ながら、性格は重厚だった。

中平(ちゅうへい)年間(184~189年)の末に等しく20余歳で、厳幹は剣術を好み、李義は葬儀を取り仕切ることを好んだという。

馮翊郡の名族である桓氏(かんし)・田氏(でんし)・吉氏(きつし)・郭氏(かくし)に加え、もと侍中(じちゅう)の鄭文信(ていぶんしん)らはふたりの重厚な人柄を認めた。

そのうち三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)が動乱に巻き込まれ、人々はよそへ避難する。

しかし厳幹と李義は郷里を離れず、知人らと運命をともにし、薪(たきぎ)を採って自活した。

建安(けんあん)年間(196~220年)の初めになり、ようやく関中(かんちゅう)への道路が開通する。

詔(みことのり)によって馮翊郡の西部の数県が分割され、左内史郡(さないしぐん)となり、高陵(こうりょう)に郡庁が置かれる。東部の数県は本郡(馮翊郡)とされ、臨晋(りんしん)に郡庁が置かれた。

所属から見れば、厳幹も李義も西部(左内史郡)に仕えるのが当然だったが、李義は言った。

「西部の県の青二才らと席を争うわけにはいかない。今は一緒に四角の寝台でも作ろう」

こうして互いを頼りにし合い、ともに東郡(とうぐん)に仕えて重職を務めた。

ここにある東郡は兗州(えんしゅう)の東郡のことなのか、左内史郡に対する東部の郡(馮翊郡)のことなのかイマイチよくわからず。たぶん後者だろうが……。

厳幹は、司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)から招かれたものの行かなかった。

この年(?)の終わり、郡は厳幹を孝廉(こうれん)に推挙し、李義を上計掾(じょうけいえん)に任じた。

後に李義は会計報告のため上京した際、そのまま都に留められ平陵県令(へいりょうけんれい)に任ぜられる。やがて冗従僕射(じょうじゅうぼくや)に昇進し、高官を歴任するに至った。

厳幹は蒲阪県令(ほはんけんれい)に任ぜられたが、病気のため官を離れた。それでも再び至孝(しこう)に推挙され、公車司馬令(こうしゃしばれい)となる。

州の要請を受け、詔により議郎(ぎろう)に任ぜられると、厳幹は帰郷して州の政治に参与した。

(206年に)高幹(こうかん)を捕らえる策を立てたことや、以前(202年)に郭援(かくえん)を討伐したときの功績が採り上げられ、厳幹は武郷侯(ぶきょうこう)に封ぜられたうえ弘農太守(こうのうたいしゅ)に昇進した。

211年、馬超(ばちょう)らが関中で反乱を起こすと、その勢力圏に近かったので、弘農郡の住民はバラバラになって逃げた。馬超が討ち破られた後、厳幹は漢陽太守(かんようたいしゅ)に転任する。

後に厳幹は益州刺史(えきしゅうしし)に昇進するも道路が通じず、曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)に五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)に転ずる。

曹叡(そうえい)の時代(226~239年)には永安太僕(えいあんたいぼく)に昇進し、数年後に死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・裴潜伝〈はいせんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

李義と記事がセットになっている部分はそのまま拾い、無理に分けないようにしました。

また、厳幹は弘農太守の時に失敗(住民が四散)した後、考えを改めて学問に励むようになったという。

特に『春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)』に精通したそうで、『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』を愛好する司隷校尉の鍾繇と、しばしば両伝を巡って議論が交わされたのだとか。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました