羅憲(らけん)

【姓名】 羅憲(らけん) 【あざな】 令則(れいそく)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)

【生没】 ?~270年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

節義を守り通し、魏(ぎ)や晋(しん)でも評価される

父は羅蒙(らもう)だが、母は不詳。羅襲(らしゅう)という息子がいた。

羅憲は若いころから才知と学問によって名を知られ、13歳にしてよく文章を書くことができたという。

238年、劉禅(りゅうぜん)が劉璿(りゅうせん)を「皇太子(こうたいし)」に立てると羅憲は「太子舎人(たいししゃじん)」となり、「太子庶子(たいししょし)」を経て「尚書吏部郎(しょうしょりぶろう)」に転ずる。

のちに「宣信校尉(せんしんこうい)」としてたびたび呉(ご)へ使いし、呉の人々の称賛を得た。

宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が実権を握ると多くの者が追従したが、羅憲だけは同調しなかったため「巴東太守(はとうのたいしゅ)」に左遷されてしまう。

このころ右大将軍(ゆうだいしょうぐん)の閻宇(えんう)が「都督巴東(ととくはとう)・領軍(りょうぐん)」として赴任し、羅憲はその副将を務める。

263年、魏軍が蜀(しょく)へ侵攻すると、閻宇は成都(せいと)に呼び戻され、羅憲が2千の兵をもって永安城(えいあんじょう)を守ることになった。

その後、成都が敗れたとのうわさが伝わると、永安城でも騒動が起き、長江(ちょうこう)流域の県では高官の逃走が相次ぐ。このとき羅憲は、成都の混乱ぶりについて言い触らす者をひとりだけ斬り、民衆を落ち着かせた。そして劉禅が本当に魏に降伏したことを知ると、配下を連れて城内の都亭(とてい)へ行き、3日間にわたり喪に服す。

翌264年、呉は蜀の敗報を聞くや、軍勢を西へ向かわせる。表向きは蜀を救援すると称していたが、実際は永安を攻め取るつもりだった。

羅憲は呉の態度を激しく非難したうえ、配下の将兵に節義を説いて城の守りを固める。呉は羅憲の堅守ぶりに手を焼き、歩協(ほきょう)の別軍を増援に充てた。

羅憲は長江に臨んで防戦に努めたものの、さすがにすべての呉軍を防ぎきることができないため、参軍(さんぐん)の楊宗(ようそう)に包囲を突破させ、魏の安東将軍(あんとうしょうぐん)の陳騫(ちんけん)に急を告げた。

さらに、配下の文武官の印綬(いんじゅ)と人質を晋王の司馬昭(しばしょう)に差し出したうえ、羅憲自身は城外へ出て歩協と戦い、敵軍を大破した。

すると呉の孫休(そんきゅう)が腹を立て、陸抗(りくこう)らに3万の軍勢をひきいさせ、永安城の包囲を強化した。

こうして6か月経っても魏からの援軍は到着せず、城内に残った大半の者が病にかかる。羅憲は逃亡を勧める意見を退け、己の最期を覚悟したが、ここでようやく魏の荊州刺史(けいしゅうしし)の胡烈(これつ)が救援に駆けつけてくれたため、呉軍は退却した。

羅憲は司馬昭の計らいで留任することができ、「淩江将軍(りょうこうしょうぐん)」に任ぜられたうえ「万年亭侯(ばんねんていこう)」に封ぜられる。ちょうど武陵(ぶりょう)の4県が呉に背いたので、羅憲は「武陵太守・巴東監軍(はとうかんぐん)」に転じた。

翌265年、羅憲は改めて晋の「西鄂県侯(せいがくけんこう)」に封ぜられる。彼が妻子を洛陽(らくよう)に移住させたところ、息子の羅襲が「給事中(きゅうじちゅう)」に任ぜられた。

267年、羅憲は朝廷に参内し「冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・仮節(かせつ)」に昇進。

翌268年、司馬炎(しばえん)が華林園(かりんえん)で催した宴会に臨席した際、羅憲は蜀の大臣の子弟について下問され、蜀の先輩のうちで任用すべき者は誰かと尋ねられる。

そこで、常忌(じょうき)・杜軫(としん)・寿良(じゅりょう)・陳寿(ちんじゅ)・高軌(こうき)・呂雅(りょが)・許国(きょこく)・費恭(ひきょう)・諸葛京(しょかつけい)・陳裕(ちんゆう)を推薦した。

羅憲が名を挙げた者たちはすぐに取り立てられ、やがて盛名をうたわれるようになる。

羅憲は任地の巴東に戻ると呉の巫城(ふじょう)を攻め取り、さらに呉を討伐するための献策を行う。そして270年に死去し、「安南将軍(あんなんしょうぐん)」の官位を追贈され「烈侯(れつこう)」と諡(おくりな)された。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・霍峻伝〈かくしゅんでん〉)に付された「霍弋伝(かくよくでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』によるもの。

羅憲はまじめで厳正な人物で、倦(う)むことなく士人を厚遇したともいい、施しを好み、財産を増やすことに興味がなかったそうです。

劉禅への筋をきっちり通してから降ったことで、魏や晋でも当然の高評価。危機に直面した際の行いには、その人の本質がよく表れますね。

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