賈逵(かき)A ※あざなは梁道(りょうどう)、賈充(かじゅう)の父

【姓名】 賈逵(かき) 【あざな】 梁道(りょうどう)

【原籍】 河東郡(かとうぐん)襄陵県(じょうりょうけん)

【生没】 174~228年(55歳)

【吉川】 第243話で初登場。
【演義】 第079回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・賈逵伝』あり。

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豫州(よしゅう)の官民から慕われ、没後に石碑と祠(ほこら)が建てられる、諡号(しごう)は粛侯(しゅくこう)

父母ともに不詳。賈習(かしゅう)は祖父。息子の賈充(かじゅう)は跡継ぎ。

賈逵はもとの名を衢(く。賈衢)とも言い、子どものころによく部隊の編制ごっこをして遊んでいた。祖父の賈習は孫を見込み、自ら数万字に及ぶ兵法を教えたという。

初め賈逵は郡吏となり、絳邑県長(こうゆうけんちょう)を代行する。

202年?、袁尚(えんしょう)から河東太守(かとうたいしゅ)に任ぜられた郭援(かくえん)が河東を攻めた際、その通り道になった城邑(まち)は降伏したが、賈逵だけは固守した。

後に茂才(もさい)に推挙され、澠池県令(べんちけんれい)となる。

205年、先に曹操(そうそう)に降った高幹(こうかん)が幷州(へいしゅう)を挙げて反乱を起こす。

これを受け、河内(かだい)の張晟(ちょうせい)配下の1万余が崤(こう)や澠(べん)の地を荒らし回り、河東の衛固(えいこ)や弘農(こうのう)の張琰(ちょうえん)も挙兵して高幹に呼応した。

賈逵は挙兵の計画を知らずに張琰と会っていたが、そこへ事変の勃発が伝わる。

賈逵は帰ろうとしたものの、この場で捕らえられてしまうことを心配する。そこで同じ考えを持っているように見せかけ、張琰のために策を立てて信用させた。

このころ澠池の県庁は蠡県(れいけん)に寄留していたが、城壁や壕(ほり)の守りは堅くなかった。

賈逵は張琰に城壁を修理するための兵を求め、それをもって抵抗。こうして張琰を討ち破った後、祖父の死を理由に官を辞した。

後に司徒(しと)から召されて掾(えん)となり、議郎(ぎろう)として司隷校尉(しれいこうい)の軍事に参画。

211年、曹操が馬超(ばちょう)を討伐した際、弘農は西方への街道の要所であるとし、賈逵に弘農太守を代行させた。

曹操は賈逵を召して相談したが、彼のことをたいへん気に入り、側近にこう語ったという。

「天下の二千石(にせんせき。太守の意)がみな賈逵のようであったら、私は何を心配すればよいのか」

その後、兵を徴発したとき、賈逵は屯田都尉(とんでんとい)が逃亡民をかくまっているのではないかと疑念を抱く。

ところが屯田都尉は、自分が郡の管轄下にないことから不遜な言葉を吐いた。

怒った賈逵は屯田都尉を逮捕したうえ、罪を責め立てて脚をへし折る。しかし、そのかどで自分も免職になった。

それでも曹操は心中で賈逵の行いをよしとしており、改めて丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)に取り立てた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

219年、曹操が劉備(りゅうび)を討伐した際、賈逵は命を受けて先行し、斜谷(やこく)の情勢を探る。

その道中、水衡都尉(すいこうとい)が数十人の囚人を車で運んでくるのに出会う。賈逵は軍情が厳しい折だからと、重罪のひとりを除き、ほかの者をみな釈放させた。

曹操は彼の判断を嘉(よみ)して諫議大夫(かんぎたいふ)に任じ、夏侯尚(かこうしょう)らとともに計略をつかさどらせた。

翌220年、曹操が洛陽(らくよう)で崩ずると、賈逵は葬儀を取り仕切った。

このころ鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰(そうしょう)は越騎将軍(えっきしょうぐん)を代行していたが、長安(ちょうあん)から駆けつけるや先王(曹操)の璽綬(じじゅ)のありかを尋ねる。

賈逵は、きっとなって言う。

「太子(曹丕〈そうひ〉。曹彰の同母兄)は鄴(ぎょう)におわし、国には世継ぎの君がございます。先王の璽綬については、あなたさまがお尋ねになることではございません」

そして、曹操の柩(ひつぎ)を奉じて鄴へ向かった。

曹丕が王位を継ぐと賈逵を鄴県令とし、ひと月余りで魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)に昇進させる。

222年?、曹丕が大軍をひきいて親征に出ると、賈逵は丞相主簿祭酒(じょうしょうしゅぼさいしゅ)として随行。

この時期に丞相主簿祭酒という官職はなかったと思われる。大軍が出征したというが、222年のことを指しているわけではないのかも?

黎陽(れいよう)の津(わたし)まで来たところ、黄河(こうが)を渡る者が列を乱す。賈逵が列を乱した者を斬り捨てたので、再び隊列は整った。

さらに譙(しょう)まで来たところで、賈逵は豫州刺史(よしゅうしし)に任ぜられる。

このころ天下は落ち着きかけたばかりで、州郡では政治に行き渡らない点が多かった。

賈逵は上奏し、州の高官が法をないがしろにした結果、盗賊が横行しているにもかかわらず、故意に糾明していないと指摘する。

前の豫州刺史から休暇をもらった兵曹従事(へいそうじゅうじ)がいて、賈逵の着任後、数か月してようやく戻ってきた。

賈逵は州の二千石以下の官吏のうち、阿諛追従(あゆついしょう)して法に合わない者を調べ上げ、すべて免職とするよう上申した。

すると曹丕は高く評価し、天下に布告して豫州のやり方を模範とさせる。賈逵は関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

豫州の南は孫権(そんけん)の勢力圏と接していたため、賈逵は敵情を探らせ、武器を修理し攻守両面の備えをする。その様子に賊(孫権軍)も思い切って侵攻してこなかった。

賈逵は軍備を整える一方で民政にも努め、鄢水(えんすい)と汝水(じょすい)を遮り新たな堤を築く。

また、山を断ち切り、長い谷川の水を貯めて小弋陽陂(しょうよくようひ)を造ったり、200余里にわたる運河を通したりしたが、これは「賈侯渠(かこうきょ)」と呼ばれるようになった。

黄初(こうしょ)年間(220~226年)、賈逵は諸将とともに呉(ご)の討伐に参加し、洞浦(どうほ)で呂範(りょはん)を撃破する。

功により陽里亭侯(ようりていこう)に爵位が進み、建威将軍(けんいしょうぐん)の称号を授けられた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと200戸を加増され、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は400戸となる。

このころ孫権が豫州の南方の東関(とうかん)におり、長江(ちょうこう)から400余里の距離があった。

そして兵を出すときは、いつも西方は江夏(こうか)から、東方は廬江(ろこう)から侵入してくる。

同じく魏が討伐軍を出すときも、必ず淮水(わいすい)や沔水(べんすい)を通った。

だが、豫州の軍勢は項県(こうけん)にいたため、汝南(じょなん)や弋陽といった諸郡では国境を守っているだけだった。

孫権は北方に不安がなかったので、東方や西方に危急があれば軍を併せて救援し合い、敗れることも少なかった。

そこで賈逵は、長江まで直通の道を開設すべきだと主張する。こうした道があれば、孫権自身が防戦に出た際に東西へは援軍を送れないから、東関の攻略も可能になるはずと考えてのことだった。

賈逵が駐屯地を潦口(りょうこう)へ移し、東関を攻め取る計略を上申したところ、これを曹叡は評価した。

この年?、呉の将軍の張嬰(ちょうえい)と王崇(おうすう)が、軍勢を引き連れて魏に降る。

228年、曹叡の詔(みことのり)により、賈逵は前将軍(ぜんしょうぐん)の満寵(まんちょう)と東莞太守(とうかんたいしゅ)の胡質(こしつ)ら4軍を監督し、西陽(せいよう)から東関へ向かう。

この際、別に曹休(そうきゅう)が皖(かん)へ、司馬懿(しばい)が江陵(こうりょう)へ、それぞれ進軍した。

賈逵が五将山(ごしょうざん)まで来たところ、曹休は賊(呉)のうちに降伏を願い出ている者(周魴〈しゅうほう〉)がいると上奏した。そして敵地深くへ進み、彼らに呼応したいと述べる。

これを受けて新たな詔が下り、司馬懿は進軍を止め、賈逵は東方へ転じて曹休と合流し、さらに進むことになった。

しかし賈逵は、曹休が敵地深くまで進入して戦えば、必ず敗れると判断する。そこで諸将に部署を割り当てると、水陸から同時に進軍した。

200里ほど進んだところで、生け捕った賊兵から曹休の石亭(せきてい)での大敗を聞き、呉軍が夾石(きょうせき)を押さえて退路を断ったこともわかった。

諸将の中には後続の援軍を待ちたいと考える者が多かったが、賈逵は呉軍の不意を突くほうがよいと言い、通常の倍の速度で進軍する。

多くの旗指物を掲げ、陣太鼓を激しく打たせて大軍に見せかけると、これを見た呉軍は引き揚げてしまった。

賈逵は夾石を占拠して兵と食糧を供給。これを受け、ようやく曹休の軍も勢いを盛り返すことができた。

この年、賈逵は病にかかって危篤となり、そのまま亡くなる。このとき55歳だったという。

死に際して側近に、孫権を斬らないうちに逝くことへの無念を述べたうえ、自分の葬儀のために何か新しく作ったり、直したりしないよう言い残す。豫州の官民は賈逵を追慕し、項県に石碑と祠を建てた。

賈逵は粛侯と諡(おくりな)され、息子の賈充が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、賈逵と曹休は仲が悪く、黄初年間には以下のようなこともありました。

曹丕が賈逵に節(せつ。権限を示すしるし)を与えるつもりでいたところ、曹休がこう言います。

「賈逵は剛毅な性格で、日ごろ将軍たちを侮り軽んじております。都督(ととく)とされてはいけません」

これを聞くと、曹丕は節を与えるのを取りやめたのだと。

それにもかかわらず、深入りした曹休が夾石で危機に陥った際、賈逵は思い切った判断で救いました。

もちろん曹休ひとりのためではないのでしょうが、こういったことから見ると、賈逵のほうが器が大きいと言えそうです。

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