王雄(おうゆう)

【姓名】 王雄(おうゆう) 【あざな】 元伯(げんぱく)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)臨沂県(りんぎけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)を暗殺させる

父母ともに不詳。王渾(おうこん)と王乂(おうがい)という息子がいた。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即いた後、崔林(さいりん)が「幽州刺史(ゆうしゅうのしし)」として赴任する。王雄は「涿郡太守(たくぐんのたいしゅ)」を務めており、北中郎将(ほくちゅうろうしょう)の呉質(ごしつ)が河北(かほく)の軍事を統括していた。

王雄は崔林配下の別駕(べつが)を通じ、崔林も呉質に敬意を表したほうがよいと忠告。だが崔林は、(呉質の機嫌を損ね)州を去ることなど履物を脱ぎ捨てる程度のものだと言い、まったく気にかけなかったという。

のち王雄は安定太守(あんていたいしゅ)の孟達(もうたつ)の推薦により、「散騎常侍(さんきじょうじ)」を経て「幽州刺史」に昇進。

ここで出てきた「孟達」は、蜀(しょく)から魏(ぎ)に降った人物とは別人。(王雄の)幽州在任中には、王雄に「烏丸校尉(うがんこうい)」を兼ねさせたいと考えた者たちが、現任の田豫(でんよ)を非難して「汝南太守(じょなんのたいしゅ)」に転出させたこともあった。

235年、王雄は配下の韓龍(かんりょう)を遣り、鮮卑の軻比能を暗殺したうえ代わって弟を立てた。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書・崔林伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)および『三国志』(魏書・田豫伝)や『三国志』(魏書・鮮卑伝)によるもの。王雄については、軻比能の暗殺以降の事績がわかりませんでした。

ただ王雄の事績より、孟達の推薦文の中に見えていた、涿郡の戸数が3千(しかも孤児や寡婦の家が半分を占めていたという)しかなかったことのほうに興味を引かれました。魏の時代になっても、まだまだ統治下に数えられる戸数は少なかったのですね。

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