裴玄(はいげん) ※あざなは彦黄(げんこう)

【姓名】 裴玄(はいげん) 【あざな】 彦黄(げんこう)

【原籍】 下邳国(かひこく)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・厳畯伝(げんしゅんでん)』に付された「裴玄伝」あり。

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孫権(そんけん)配下の太中大夫(たいちゅうたいふ)

父母ともに不詳。裴欽(はいきん)という息子がいた。

裴玄は学識があって行いも正しく、孫権に仕えて太中大夫まで昇進した。

裴玄は息子の裴欽に、斉(せい)の桓公(かんこう)・晋(しん)の文公(ぶんこう)・伯夷(はくい)・柳下恵(りゅうかけい)という4人の優劣について問うたことがあった。

裴欽が自分の考えを述べると、それに応じて裴玄も思うところを述べるというやり取りが繰り返されたが、ふたりの議論は言葉が美しいうえ、道理にもかなっていたという。

なお、その後の裴玄に関する記事はない。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいうえ、具体的な事績についての記事もなく、どのような人物だったのかはよくわかりませんでしたが――。

『三国志』(呉書・歩騭伝〈ほしつでん〉)に見えている、歩騭が孫登(そんとう)の求めに応じ、荊州(けいしゅう)で優れた手腕を発揮している者と認めて名を挙げた11人の中に、この裴玄も含まれていました。

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