【姓名】 歩騭(ほしつ) 【あざな】 子山(しざん)
【原籍】 臨淮郡(りんわいぐん)淮陰県(わいいんけん)
【生没】 ?~247年(?歳)
【吉川】 第146話で初登場。
【演義】 第043回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・歩騭伝』あり。
要地の西陵(せいりょう)を長く治め、敵国まで威信を轟(とどろ)かす
父母ともに不詳。息子の歩協(ほきょう)は跡継ぎで、歩闡(ほせん)も同じく息子。
歩騭は、世の混乱を避けて江東(こうとう)へ移った。江東には頼れる人もいなかったので困窮したが、同い年で仲の良かった衛旌(えいせい)とともに、瓜(ウリ)を植えて生計を立てる。昼は畑に出て働き、夜は経書や解釈書を読みふけった。
このころ会稽(かいけい)に焦矯(しょうきょう)という豪族がおり、その食客たちが勝手気ままに振る舞っていた。歩騭と衛旌は焦矯の勢力下にある土地で暮らそうと考え、名刺と瓜を手に出向く。
ところが焦矯は、わざと長く待たせたうえ、地面に敷物をしかせてふたりの席とする。この扱いに衛旌は腹を立てたが、歩騭は平然としていた。
そのうち食事が出されると、焦矯は卓上に並べられたごちそうを食べたが、歩騭と衛旌の分は、ご飯と野菜のおかずだけだった。衛旌は食べようとしなかったが、歩騭は残さず食べ、満腹になってから辞去したという。
200年、孫権(そんけん)が討虜将軍(とうりょしょうぐん)になると、歩騭は召されて将軍府の主記(しゅき)に任ぜられる。
後に海塩県長(かいえんけんちょう)に転じ、召し還されて(孫権の)車騎将軍府(しゃきしょうぐんふ)の東曹掾(とうそうえん)に任ぜられた。
★孫権が漢(かん)の車騎将軍に任ぜられたのは209年のことで、219年に驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられた。さらに荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねたうえ、南昌侯(なんしょうこう)に封ぜられた。
210年、歩騭は地方へ出て鄱陽太守(はようたいしゅ)となるも、この年のうちに交州刺史(こうしゅうしし)に転じ、立武中郎将(りつぶちゅうろうしょう)として1千の武装兵を預かり、近道を使って任地へ向かう。
翌211年、歩騭は任地において、使持節(しじせつ)・征南中郎将(せいなんちゅうろうしょう)を加官される。
劉表(りゅうひょう)が任命した蒼梧太守(そうごたいしゅ)の呉巨(ごきょ)は、密かに異心を抱いており、表向き孫権の支配を受け入れていたが、本心からの態度ではなかった。
歩騭は丁重な礼をもって呉巨を招くと、会見の席で斬り捨てる。この一件があってから彼の威声は大いに振るい、士燮(ししょう)ら兄弟も命令を聞き入れるようになった。
益州郡(えきしゅうぐん)の豪族の雍闓(ようかい)らが益州太守の正昂(せいこう)を殺害し、士燮を通じて孫権に従う旨を伝えてくる。
歩騭は孫権の指示を待って使者を遣り、雍闓らの申し出が受け入れられたことを伝えた。
この功により、歩騭は平戎将軍(へいじゅうしょうぐん)の官位を加えられ、広信侯(こうしんこう)に封ぜられた。
220年、呂岱(りょたい)が新たな交州刺史として赴任すると、歩騭は同行を希望した交州の1万余人を連れて長沙(ちょうさ)に行く。
翌221年、劉備(りゅうび)が東征に乗り出し、これに呼応した武陵(ぶりょう)の異民族も不穏な動きを見せる。ここで歩騭は孫権の命を受けて益陽(えきよう)へ行った。
翌222年、孫権軍は猇亭(おうてい)で劉備軍を大破したものの、零陵(れいりょう)や桂陽(けいよう)の動揺は収まらず、なお各地に服従しない武装勢力が残っていた。歩騭はこうした勢力の討伐に転戦し、みな平定してしまう。
翌223年、歩騭は右将軍(ゆうしょうぐん)・左護軍(さごぐん)に昇進し、臨湘侯(りんしょうこう)に移封される。
226年、さらに歩騭は仮節となり、漚口(おうこう)に移駐する。
229年、孫権が帝位に即くと、歩騭は驃騎将軍に任ぜられ、(名目上の)冀州牧(きしゅうぼく)を兼ねる。
そして、この年のうちに西陵都督(せいりょうととく)となり、陸遜(りくそん)に代わって国境地帯の宣撫(せんぶ)にあたった。
ほどなく呉と蜀(しょく)が盟約を結び、冀州は蜀に属するものとされたため、冀州牧の職は解かれた。
建業(けんぎょう)への遷都後、皇太子の孫登(そんとう)が旧都の武昌(ぶしょう)に留まっていた。
歩騭は孫登から手紙を受け取ると、諸葛瑾(しょかつきん)・陸遜・朱然(しゅぜん)・程普(ていふ)・潘濬(はんしゅん)・裴玄(はいげん)・夏侯承(かこうしょう)・衛旌・李粛(りしゅく)・周条(しゅうじょう)・石幹(せきかん)という11人の名を挙げ、それぞれの特長について記したうえ、これに上疏文を付けて差し出し、謙虚に教えを請うてきた孫登を激励した。
後に中書(ちゅうしょ)の呂壱(りょいつ)が、諸官庁や州郡の文書を検査する任にあたると、むやみやたらに摘発を繰り返す。
歩騭は上疏を行って非難し、238年には呂壱が誅殺された。
歩騭は埋もれている人材を推挙したり、苦しい立場にある者を救うため、前後にわたって数十通もの上書を差し出す。
そのすべてが孫権に聞き入れられたわけではなかったが、彼の意見を採り上げることも多かったという。
246年、歩騭は陸遜に代わって丞相(じょうしょう)となったが、これまで通り一族の子弟を教え諭し、自身も書物を手放さず、衣服や住まいは一学者のように粗末なものだった。
それでも妻や妾(めかけ)はきらびやかな衣服を身に着けていたため、歩騭が謗(そし)られることもあった。
歩騭は西陵に20年近くもいたが、やがて隣接する敵国からも敬われる存在となった。寛大な性格で人々に慕われ、喜怒を表に出すことはなかったものの、家の内外はよく治まったという。
翌247年、歩騭は死去し、息子の歩協が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
歩騭は若いころかなり苦労したようですけど、細かいことにこだわらない度量の広さを感じました。
妻や妾が着飾る一方で自身は質素にしていたのも、特に意識したわけではなく、そのようなことを気にしなかったという意味なのでしょう。
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