歩闡(ほせん)

【この記事をシェアする】

【姓名】 歩闡(ほせん) 【あざな】 ?

【原籍】 臨淮郡(りんわいぐん)淮陰県(わいいんけん)

【生没】 ?~272年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・歩騭伝(ほしつでん)』に付された「歩闡伝」あり。

歩氏最後の「西陵督(せいりょうのとく)」

父は歩騭だが、母は不詳。歩協(ほきょう)は兄。

247年、歩騭が死去すると歩協が跡を継ぎ、父の配下にあった軍勢を取りまとめて「撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)」の官位を加えられた。

その歩協が死去(時期は不明)すると息子の歩璣(ほき。歩闡の甥)が爵位を継いたが、軍勢の指揮は歩闡が引き継ぎ「西陵督」となる。歩闡は「昭武将軍(しょうぶしょうぐん)」の官位を加えられ「西亭侯(せいていこう)」に封ぜられた。

272年、歩闡は中央へ召し還されて「繞帳督(ぎょうちょうとく)」に任ぜられることになった。

だが、歩氏一族が長く西陵に在任してきたにもかかわらず、ここで急な召還命令を受けたため不審を抱き、城を挙げて晋(しん)に降伏しようと考える。そこで歩璣とその弟の歩璿(ほせん。歩闡の甥)を洛陽(らくよう)へ遣り、降伏の証しとした。

これを受けて晋は、歩闡を「都督西陵諸軍事(ととくせいりょうしょぐんじ)・衛将軍(えいしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)」に任ずる。

そして「侍中(じちゅう)」の官位を加え「仮節(かせつ)」とし、「交州牧(こうしゅうのぼく)」を兼ねさせたうえ「宜都公(ぎとこう)」に封じた。また、歩璣と歩璿にも同様に官爵が与えられた。

さらに晋は車騎将軍(しゃきしょうぐん)の羊祜(ようこ)と荊州刺史(けいしゅうしし)の楊肇(ようちょう)を西陵の救援に差し向ける。

しかし、孫晧(そんこう)の命を受けた陸抗(りくこう)の軍勢が西進すると晋軍は退却。この年のうちに西陵は陥落し、歩闡も斬首される。歩氏一族はほぼ絶えてしまったが、ただ歩璿のみが生き残り、先祖の祭祀(さいし)を継いだという。

管理人「かぶらがわ」より

孫晧の召還命令に従えば地盤を失い、晋への投降が発覚すれば呉軍の討伐を受ける。もともと歩闡の立場は苦しいものでしたし、頼みの晋軍が撃退されてしまっては……。彼が死を免れる方法はあったのでしょうか?

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】