【姓名】 張紘(ちょうこう) 【あざな】 子綱(しこう)
【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)
【生没】 152~211年(60歳)
【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・張紘伝』あり。
張昭(ちょうしょう)ともども若き孫権(そんけん)の補佐に尽力
父母ともに不詳。張靖(ちょうせい)と張玄(ちょうげん)という息子がいた。
張紘は洛陽(らくよう)の太学(たいがく)で学問を修めた後、故郷に戻って茂才(もさい)に推挙され、三公の役所から招かれたが、いずれにも応じなかった。
やがて戦乱を避けて江東(こうとう)へ移住し、孫策(そんさく)の熱心な招きを受けて出仕する。
こうして孫策の上表により正議校尉(せいぎこうい)に任ぜられ、丹楊(たんよう)討伐に付き従う。孫策が陣頭に立とうとすると、張紘は軽率さを諫め、立場をよく考えるよう諭した。
199年、張紘は孫策の上章文を携えて許都(きょと)へ赴いたが、このとき曹操(そうそう)に引き留められ、侍御史(じぎょし)に任ぜられる。
翌200年、孫策が急死すると、曹操は混乱に乗じて江東を攻め取ろうと考えた。
しかし張紘がそのような態度を非難し、むしろ跡を継いだ孫権に恩を施すほうがよいと述べると、曹操も考え直す。
そこで孫権を討虜将軍(とうりょしょうぐん)に任じ、会稽太守(かいけいたいしゅ)を兼ねさせたうえ、さらに張紘を会稽東部都尉(かいけいとうぶとい)に任じ、孫権を説かせて自分の支配下に取り込もうとした。
後に張紘は孫権の長史(ちょうし)となり、208年の合肥(ごうひ)遠征に随行する。
このとき孫権は軽装備の騎兵をひきい、自ら陣頭に出て戦おうとした。それでも張紘が軽率を戒めると、彼の意見に従ったという。
合肥から帰還後、孫権が再び軍勢を動かそうとした。
張紘は孫権を諫め、しばらく兵を休ませて農業の振興に努め、賢者を任用して寛大な政治を行うよう勧める。孫権は彼の意見を容れ、出撃計画を取りやめた。
また、張紘は本拠地を京城(けいじょう。京口〈けいこう〉)から秣陵(ばつりょう)へ遷(うつ)すことを勧め、これも孫権の容れるところとなる。
211年、秣陵への遷都後、張紘は呉郡にいる孫権の家族を迎えに行くが、往復の道中で病死。このとき60歳だった。彼は詩・賦(ふ)・銘・誄(るい。死者を悼む文)など、10余編の著作を残したという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によると、もともと孫権は群臣をあざなで呼んでいました。
ただ、張昭は張公と、張紘は(官名の会稽東部都尉から)東部と、それぞれ尊称していたという。
戦場で前に出たがる主君を諫めるには、張紘のような敬意を払われた名士が欠かせません。
何となく張昭のほうが年長っぽいイメージを持っていましたが、実際には張紘のほうが4歳年上だったのは意外でした。
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