沐並(もくへい) ※あざなは徳信(とくしん)

【姓名】 沐並(もくへい) 【あざな】 徳信(とくしん)

【原籍】 河間郡(かかんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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剛直との評判が異境まで聞こえる

父母ともに不詳。沐雲(もくうん)と沐儀(もくぎ)という息子がいた。

沐並は若いころに父を亡くして苦労したが、袁紹(えんしょう)父子の時代(189~204年)に名吏となった。

袁紹は189年に冀州(きしゅう)へ入り、202年に死去した。息子の袁尚(えんしょう)が跡を継ぐも、204年、曹操軍(そうそうぐん)により本拠の鄴(ぎょう)が陥落。その後は各地を逃げ回った末、207年に遼東(りょうとう)で公孫康(こうそんこう)に斬殺された。

沐並は融通の利かないところがあったが、人柄は公正かつ果断で、権力者にも遠慮しなかったという。後に曹操に召されて丞相軍謀掾(じょうしょうぐんぼうえん)となる。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

そして、曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には成皋県令(せいこうけんれい)に転じた。

あるとき校事(こうじ)の劉肇(りゅうちょう)が成皋に立ち寄り、県吏を呼びつけて藁(ワラ)と穀物を要求する。そのころ蝗(イナゴ)や日照りの被害が出ていたため、役所にはまったく蓄えがなかった。

沐並が要求を無視したところ、劉肇の部下が役所に乗り込み県吏を罵る。怒った沐並は剣を手に、多くの県吏とともに劉肇を捕らえようとした。

沐並の動きに気づいた劉肇は馬で逃げ、この件を報告する。

詔(みことのり)が下って沐並は逮捕されたが、判決は髠刑(こんけい。髪を剃〈そ〉る刑罰)で死刑は免れた。

沐並は刑期を終えると官吏に復帰したが、以後の10余年は奔放に過ごす。後に曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)に三府長史(さんぷちょうし)となった。

241年、呉(ご)の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の朱然(しゅぜん)に魏(ぎ)の樊城(はんじょう)が攻囲される。別に大将軍(だいしょうぐん)の諸葛瑾(しょかつきん)に柤中(そちゅう)が占領された。

このとき呉軍では、水軍の兵士に峴山(けんざん)の東で船用の木材を切り出させた。

牂牁(そうか)出身の人夫や兵士が食事を作り、先に煮えた者がまだ煮えない者に声をかけ、「一緒に食べよう」と言う。

だが、まだ煮えない者は「嫌だ」と応えた。

すると、先に煮えた者が言った。

「あんた。沐徳信(徳信は沐並のあざな)になるつもりかい?」

沐並の名が流布し、異境まで広がっているさまはこのようなもので、中華(ちゅうか)の地においても、沐並を知らない者は(あまりに有名なので)前代の人と思い込んでいたほどだった。

沐並は長史となり8年が経つと、晩年に地方へ出て済陰太守(せいいんたいしゅ)を務め、召し還されて議郎(ぎろう)に任ぜられた。

すでに60余歳になっていた沐並は、あらかじめ自分が亡くなった後のことを決めておき、葬儀は簡素に営むよう息子たちを戒める。

嘉平(かへい)年間(249~254年)に病が重くなり、いよいよ危篤となると、やはり前もって(埋葬用の)穴を掘っておくよう命じた。

そして沐並は、息が絶えたらお前たちふたりですぐさま遺体を穴に入れ、大声で泣く礼はやめ、婦女による野辺送りもせず、弔問客は断り、粟(アワ)や米を盛った供え物も設けるなと戒める。

また、亡くなった一族の者は柩(ひつぎ)に納めず、(墓に)土を盛ったり植樹をしてはならないとも戒め、妻子は彼の言いつけに従ったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・常林伝〈じょうりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』などによるもの。

『魏略』では、常林・吉茂(きつぼう)・沐並・時苗(じびょう)の4人をまとめて「清介伝(せいかいでん。心が清らかなため世間と合わず、孤独な様子〈の人々を採り上げた伝〉)」としているとのこと。

己の考えを貫き通し、前代の人だと思い込まれるほどの評判を得た沐並。

ただのわからず屋ではこうした扱いにならないでしょうから――。彼の行いは計算されたものではなく、確固たる信念に基づいたものだったのですね。

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