【姓名】 孟達(もうたつ) 【あざな】 子度(したく)
【原籍】 扶風郡(ふふうぐん)
【生没】 ?~228年(?歳)
【吉川】 第189話で初登場。
【演義】 第060回で初登場。
【正史】 登場人物。
関羽(かんう)の救援要請を断ったことから破滅へ
父は孟他(もうた)だが、母は不詳。孟興(もうこう)という息子がいた。
孟達はもとのあざなを子敬(しけい)といったが、劉備(りゅうび)の叔父である劉敬(りゅうけい)の名を避け、子度と改めたのだという。
建安(けんあん)年間(196~220年)の初めに天下が飢饉(ききん)に見舞われた際、孟達は同郡の法正(ほうせい)とともに蜀(しょく)へ赴き、劉璋(りゅうしょう)に仕えた。
211年、劉璋は遠縁にあたる劉備を益州(えきしゅう)へ迎え入れ、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)討伐を依頼する。
このとき孟達は法正の副将となり、それぞれ2千ずつの兵をひきいて荊州(けいしゅう)まで劉備を迎えに行く。ここで孟達は劉備の命を受け、そのまま江陵(こうりょう)に駐屯した。
翌212年、劉備が劉璋との間に戦端を開く。
214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降して蜀を平定すると、孟達は宜都太守(ぎとたいしゅ)に任ぜられた。
219年、孟達は秭帰(しき)から北上して房陵(ぼうりょう)を攻め、配下の兵が房陵太守の蒯祺(かいき)を討ち取った。
次いで孟達は劉封(りゅうほう)や李厳(りげん)と上庸(じょうよう)で合流し、進撃を続ける。
上庸太守の申耽(しんたん)は弟の申儀(しんぎ)とともに軍勢を挙げて降伏し、妻子や一族を成都へ送った。
そのころ関羽は樊城(はんじょう)や襄陽(じょうよう)を包囲しており、たびたび劉封と孟達に増援を要請してくる。
だが、ふたりは上庸一帯が従属したばかりだったので、この地域に動揺を与えないためとして断り続けた。
ところが同年12月、関羽は孫権(そんけん)の急襲を受け、捕らえられて処刑される。
劉備は援軍を出さなかった孟達らをひどく恨んだ。それに加えて、もともと孟達は劉封と仲が悪く、劉封が孟達の軍楽隊を没収するということもあった。
翌220年7月、孟達は関羽の件で処罰されることを恐れていたうえ、劉封への憤りも感じていた。そこで劉備に決別の上表文を送り、軍勢(私兵4千余家)をひきいて魏(ぎ)に降伏した。
曹丕(そうひ)に譙(しょう)で謁見したところ大いに気に入られ、孟達は散騎常侍(さんきじょうじ)・建武将軍(けんぶしょうぐん)に任ぜられ、平陽亭侯(へいようていこう)に封ぜられる。
また、房陵・上庸・西城(せいじょう)の3郡を併せて新城郡(しんじょうぐん)が新設され、その太守まで兼ねることになった。
ほどなく孟達は、征南将軍(せいなんしょうぐん)の夏侯尚(かこうしょう)や右将軍(ゆうしょうぐん)の徐晃(じょこう)とともに劉封を攻める。
このとき孟達は手紙を送り、劉封が養子である点を指摘して、魏に降ることを勧めた。
しかし劉封は応じず、申儀の離反もあって敗れ、成都へ逃げ戻った末に劉備の問責を受けて自殺した。
226年、孟達を厚遇した曹丕が崩御(ほうぎょ)する。さらに、彼と親しくしていた桓階(かんかい。没年不詳)や夏侯尚(225年没)も同じころに亡くなってしまう。
すると孟達は、自分は他国から身を寄せた者にすぎないのに、長期にわたり辺境の守備を任されていることを考え、心中で不安になってきた。
そうした孟達の心情を察した蜀の諸葛亮(しょかつりょう)から、手紙による誘いを何度も受ける。
そのうち孟達と不仲だった魏興太守(ぎこうたいしゅ)の申儀が、諸葛亮との内通の件を密奏した。
曹叡(そうえい)は密奏の内容を信ずるまでに至らなかったものの、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の司馬懿(しばい)が参軍(さんぐん)の梁幾(りょうき)を派遣して調査させる。
調査が進む一方で、孟達は入朝を求められ、ますます不安を募らせた。
翌227年12月、ついに孟達が反乱を起こすと、曹叡の詔(みことのり)を受けた司馬懿が討伐に向かう。
翌228年1月、孟達は司馬懿の急襲を受けて斬殺され、その首は洛陽(らくよう)の四つ辻(つじ)で焼かれた。
なお、孟達の息子の孟興は議督軍(ぎとくぐん)となり、264年に扶風に帰ったという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)や『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)――。
さらに『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)、『三国志』(蜀書・劉封伝)、『三国志』(蜀書・法正伝)とその裴松之注によるものです。
孟達の名が『三国志』のどのあたりに見えているかを追っていくと、おおよそ彼の考え方もうかがえます。
劉璋は為政者としての資質に疑問が感じられますので、孟達が劉備に鞍(くら)替えしたことは非難しませんけど……。それ以後の彼の動きはどうなのでしょう?
関羽軍に対する状況判断を誤ったのか、関羽個人への思い入れという点で、古参の将軍たちとは意識が違いすぎたのか?
上庸における相棒が劉封だったというのも、不運な巡り合わせと言えるでしょうか。
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