虞翻(ぐはん) ※あざなは仲翔(ちゅうしょう)

【姓名】 虞翻(ぐはん) 【あざな】 仲翔(ちゅうしょう)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)

【生没】 164~233年(70歳)

【吉川】 第059話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・虞翻伝』あり。

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一流の学者ながら協調性を欠き、配所で生涯を終える

父は虞歆(ぐきん)だが、母は不詳。虞汜(ぐし。四男)・虞忠(ぐちゅう。五男)・虞聳(ぐしょう。六男)・虞昺(ぐへい。八男)など、合わせて11人の息子がいた。

初め虞翻は、会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗(おうろう)に仕えて功曹(こうそう)を務めた。

196年、孫策(そんさく)が会稽へ進軍したとき、虞翻は父の喪に服していたが、喪服のまま役所の門まで駆けつける。

服喪中の身で役所に入れない虞翻のため、王朗のほうから門前へ出ていこうとすると、虞翻は喪服を脱いで役所に入った。

虞翻は孫策の鋭鋒を避けるよう勧めたものの、王朗は聞き入れず、戦って敗れた末に海上へ逃げた。

虞翻は王朗と合流して候官(こうかん)にたどり着く。県長は城門を閉ざして受け入れを拒んだが、虞翻の説得で翻意した。

後に虞翻が故郷に戻ると、孫策から功曹に任ぜられたうえ、友人の待遇を受けた。

虞翻は、たびたび狩りに出かける孫策を諫めたが、そのうち富春県長(ふしゅんけんちょう)に転じた。

200年、孫策が急死すると、重臣はみな任地を離れて葬儀に参列しようとした。

しかし虞翻は山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)が変事を起こす恐れがあるとして、富春に留まったまま喪に服す。ほかの県でも彼に倣ったため、懸念されたような変事は起こらなかった。

後に虞翻は州から茂才(もさい)に推挙され、朝廷から侍御史(じぎょし)として召され、司空(しくう)の曹操(そうそう)からも招かれたが、いずれにも応じなかった。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

やがて虞翻は孫権(そんけん)から騎都尉(きとい)に任ぜられる。

だが、しばしば孫権の意に沿わない諫言を行い、虞翻自身も他人と協調できない性格だったため批判を浴び、丹楊郡(たんようぐん)の涇県(けいけん)へ強制移住させられた。

219年、呂蒙(りょもう)が荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)を油断させる一計を案じ、病と称して建業(けんぎょう)に帰ってくる。

このとき呂蒙は、医術にも通じている虞翻を同行させたいと願い出ることで、以前の虞翻の罪が許されるよう取り計らった。

こうして呂蒙が全軍を挙げて西進すると、劉備(りゅうび)配下の南郡太守(なんぐんたいしゅ)の麋芳(びほう)は戦わずに降伏した。

このとき呂蒙が城に入らず、城外で祝宴を開こうとしたので、虞翻は注意を促す。

「麋将軍には二心がないにせよ、城内の者はみな信用できるとは限りません。なぜ速やかに城へお入りになり、その鍵を握られないのですか?」

すぐに呂蒙が進言を容れたため、密かに練られていた急襲の企てを防ぐことができた。

また虞翻は占いにも通じており、敗走した関羽が2日のうちに処刑されると言い当て、孫権から腕前を認められた。

魏将(ぎしょう)の于禁(うきん)は(219年に)関羽に捕らえられて以来、江陵(こうりょう)で投獄されていた。孫権は牢獄(ろうごく)から出して礼遇したが、虞翻は(降伏者である)于禁の態度を非難し続け、孫権の機嫌を損ねた。

221年、孫権が魏の曹丕(そうひ)から呉王に封ぜられ、祝宴が開かれたが、その終わりごろ孫権自ら酒をついで回る。

ところが虞翻は酔いつぶれたふりをして、床に伏したまま杯を受けなかった。そのうえ孫権が自分の前を通りすぎると、身を起こして座り直す。

この様子を見た孫権は激怒して虞翻を斬ろうとしたが、大農(だいのう)の劉基(りゅうき)の執り成しで何とか思いとどまった。

あるとき虞翻が船で出かけ、(先に戦わず降伏した)麋芳の船に出会う。麋芳の船には大勢が乗っており、先導の者から「将軍の船を避けよ!」と言われた。

すると、虞翻は大声でこう言い返す。

「忠や信のない者が、何をもって主君にお仕えするというのか?」

「預かった城をふたつ(江陵と公安〈こうあん〉を指す)も傾けておきながら、将軍などと称してよいものか!」

これを聞いた麋芳は船の戸を閉じ、あわてて虞翻の船を避けさせたという。

後に虞翻が車で出かけた折、たまたま麋芳の軍営を通りかかったが、軍吏が門を閉めたので通れなかった。

すると、虞翻は怒ってこう言った。

「(城門を)閉めねばならぬときに開けて(降伏して)おきながら、(今度は陣門を)開けねばならぬときに閉めてしまう。物事の道理がわかっているのか?」

これを聞き、麋芳は大いに恥じ入ったという。

虞翻には自分の考えを押し通すきらいがあり、たびたび酒席で失態を演じた。

また、あるとき孫権と張昭(ちょうしょう)が議論し、話題が神仙のことに及ぶと、虞翻は張昭を指さしてこう言った。

「あいつらはみな死人だ。それなのに(死人と)神仙について語り合われるとは……。この世に仙人などいるものか!」

孫権は以前から虞翻の態度に怒りを募らせていたので、ついに交州(こうしゅう)への強制移住を命ずる。

それでも虞翻は、交州の地で倦(う)むことなく学問や教育に励み、常に数百人の門弟を抱えるほどだった。

『易経(えききょう)』や『書経(しょきょう)』に関する先人の誤った解釈を正して、『老子(ろうし)』『論語(ろんご)』『国語(こくご)』の注釈書も著したが、これらは広く世に行われた。

233年、虞翻は70歳で死去したが、柩(ひつぎ)を故郷へ運んで埋葬することが許され、併せて妻子の帰郷も許されたという。

管理人「かぶらがわ」より

経書に精通しているうえに医術の心得もあり、矛までよく遣ったという虞翻。

相当ひねくれたところがあったのは確かでしょうけど、孫権はそのような彼を使いこなせなかったことで、かなり損をした感じがします。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』にあった王朗と虞翻とのやり取りを見ると、虞翻が古今の有能な人物を、実によく知っていた様子もうかがえました。

虞翻が于禁や麋芳に投げかけた皮肉も、決して的外れなものではなかったですし……。もう少し周囲に気配りができていれば、呉の有力な三公候補だったことでしょう。

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