朱治(しゅち)

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【姓名】 朱治(しゅち) 【あざな】 君理(くんり)

【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)故鄣県(こしょうけん)

【生没】 156~224年(69歳)

【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・朱治伝』あり。

孫氏(そんし)3代(孫堅〈そんけん〉・孫策〈そんさく〉・孫権〈そんけん〉)に仕え、長く「呉郡太守(ごぐんのたいしゅ)」を務めた宿将

父母ともに不詳。息子の朱才(しゅさい)は跡継ぎで、朱紀(しゅき)・朱緯(しゅい)・朱万歳(しゅばんさい)も同じく息子。ほかに養子(姉の息子)の朱然(しゅぜん。施然〈しぜん〉)もいた。

朱治は初め県吏となり、のち孝廉(こうれん)に挙げられて州の「従事(じゅうじ)」に転ずる。やがて孫堅に仕え、各地の討伐に付き従うようになった。

188年、朱治は「司馬(しば)」に任ぜられ、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡などの不服従民である周朝(しゅうちょう)や蘇馬(そば)らの討伐で功を立てる。孫堅の上表により「都尉(とい)」を代行。

191年、朱治は董卓軍(とうたくぐん)を陽人(ようじん)で撃破し、孫堅に付き従って洛陽(らくよう)へ入る。

朱治は孫堅の上表により「督軍校尉(とくぐんこうい)」を代行。別動部隊をひきいて徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)に助力し、黄巾(こうきん)の討伐にあたった。

192年(もしくは191年)、孫堅が戦死した後は孫策を守り立て、ともに袁術(えんじゅつ)のもとに身を寄せる。そのうち袁術の統治のまずさを感じ取ると、朱治は孫策に自力で江東(こうとう)を平定するよう勧めた。

このころ太傅(たいふ)の馬日磾(ばじつてい)が寿春(じゅしゅん)におり、朱治は招かれて「太傅掾(たいふのえん)」に任ぜられ、やがて「呉郡都尉(ごぐんのとい)」に昇進。

また、孫策の叔父の呉景(ごけい)は丹楊にいたが、孫策が袁術の命を受け廬江(ろこう)を攻めると、揚州刺史(ようしゅうしし)の劉繇(りゅうよう)は袁術や孫策に州を奪われることを恐れだす。

ところが、まだ孫策の一族は劉繇の統治下にある曲阿(きょくあ)にいたため、朱治は人を遣り、孫策の母の呉氏や弟の孫権らを歴陽(れきよう)に迎え取らせた。

195年、朱治が銭唐(せんとう)から呉郡へ進もうとすると、呉郡太守の許貢(きょこう)に由拳(ゆうけん)で阻まれたので、これと戦い大破した。許貢は南へ逃げて厳白虎(げんぱくこ)を頼り、朱治は「呉郡太守」を代行する。孫策は劉繇を敗走させ、東へ進み会稽(かいけい)を平定した。

翌196年、朱治は15歳の孫権を孝廉に推挙する。200年、孫策が急死すると張昭(ちょうしょう)らとともに孫権を補佐した。

そして202年、孫権の上表により「呉郡太守・扶義将軍(ふぎしょうぐん)」に任ぜられ、婁(ろう)・由拳・無錫(ぶせき)・毗陵(ひりょう)の4県を封邑(ほうゆう)として賜る。

その後、朱治は山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)などの討伐で功を立て、黄巾の残党である陳敗(ちんはい)や万秉(ばんへい)らを捕らえたり斬ったりした。

222年、朱治は「毗陵侯」に封ぜられ、引き続き「呉郡太守」を兼ねる。

翌223年、朱治は「安国将軍(あんこくしょうぐん)」に任ぜられ、金印と紫綬(しじゅ)を授かり「故鄣侯」に移封された。

このころ丹楊の奥地には不服従民が残っていたが、朱治も年老いて郷里が懐かしくなったことから、故鄣への駐屯を願い出て許しを得たうえ山越の鎮撫(ちんぶ)にあたる。

朱治は1年ほどで呉郡へ戻り、224年に69歳で死去した。「呉郡太守」としての在任期間は30年(本伝には「31年」とある)にもなる。息子の朱才が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると孫権は主要な将軍職を歴任し、221年に魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から「呉王」に封ぜられましたが、朱治には特に手厚い待遇を与えたそうです。

例えば、朱治が参内した際は自ら出迎え、笏(しゃく)を手にあいさつを交わし、わざわざ宴会を開き下賜品を授けただけでなく、朱治の側近までも献上品を届け、孫権に個人的に謁見することが許されていたのだとか。

また朱治は、孫権の弟の孫翊(そんよく)の振る舞いを諫めたり、従兄の孫賁(そんほん)にも時勢を説き諫言したりもしています。

こうした忠勤は孫権も賛嘆するほどでしたが、朱治の暮らしぶりはつましいもので、必要以上の車馬や衣服を用いることはありませんでした。やはりここが重要で、高位に昇った後の行いにこそ、その人の真価が表れるのだと思います。

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