【姓名】 韓宣(かんせん) 【あざな】 景然(けいぜん)
【原籍】 勃海郡(ぼっかいぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
曹植(そうしょく)との偶然の出会いから、思いがけず曹丕(そうひ)に認められる
父母ともに不詳。
韓宣は小柄だったという。建安(けんあん)年間(196~220年)、曹操(そうそう)に召されて丞相軍謀掾(じょうしょうぐんぼうえん)となったものの、特に仕事もないまま鄴(ぎょう)で暮らした。
★曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。
あるとき鄴の王宮に出入りした際、東掖門(とうえきもん)の内で臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植と出会う。ちょうど雨が降ったばかりで地面はぬかるんでいた。
韓宣は曹植を避けようとしたが、水たまりに遮られて進めない。そこで扇で顔を隠し、道端にジッとしていた。
曹植は韓宣が立ち去らないうえに礼も執らないので、腹を立てて車を止める。そして侍臣を遣り官職を尋ねさせ、丞相軍謀掾だと聞くと、とがめて言った。
「お前は列侯(れっこう)の邪魔をしてもよいのか?」
これに韓宣が応えた。
「『春秋(しゅんじゅう)』の建前では、王(魏王の曹操)の直臣は身分が卑しくとも諸侯の上に位置します。丞相の属官が田舎の諸侯に礼を執るなど聞いたことがありません」
★曹操が魏王の位にあったのは216~220年。
さらに曹植が言った。
「たとえお前の言う通りだとしても、人の父に仕えているなら、その子(曹植は曹操の息子)に会えば礼を執るべきではないか?」
また韓宣が応えた。
「礼においては臣と子は同格です。それに私のほうが年上ですから――」
曹植は韓宣をやり込められず、そのまま立ち去る。この話を王太子(217~220年)の曹丕に詳しく語り、弁の立つ奴だと評した。
曹丕の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、韓宣は尚書郎(しょうしょろう)を務めていたが、職務上の件で罰を受けることになり、殿前で縄を掛けられ杖(じょう)打ちを待っていた。
そこへ曹丕の車が通りかかり、「この者は誰か?」と下問する。名を聞くと、曹丕は以前に曹植が言っていたことを思い出し、特に許して縄を解かせた。
後に韓宣は地方へ出て清河太守(せいかたいしゅ)や東郡太守(とうぐんたいしゅ)を務める。
曹叡(そうえい)の時代(226~239年)には尚書・大鴻臚(だいこうろ)まで昇進し、数年後に死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・裴潜伝〈はいせんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。
そこには韓宣を「有能と無能の中間にあった」と評する記事があり、「それでもよく自分を抑え、人を許した」ともありました。
もし韓宣が雨上がりに曹植と出会っていなければ、九卿(きゅうけい)まで昇らなかったかもしれませんね。
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