何晏(かあん)

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【姓名】 何晏(かあん) 【あざな】 平叔(へいしゅく)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)宛県(えんけん)

【生没】 190~249年(60歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「何晏伝」あり。

曹操(そうそう)の側室となった尹氏(いんし)の連れ子。白粉(おしろい)愛用のナルシスト

実父は不詳だが、母は尹氏。何進(かしん)は祖父。

何晏は、母の尹氏が曹操の側室となったことから魏の宮中で育つ。曹操の娘(金郷公主〈きんきょうこうしゅ〉)を娶り、若くして秀才の評判があった。

また老荘思想を好み、『道徳論(どうとくろん)』や『論語集解(ろんごしっかい)』ほか、数十編に上る文や賦(ふ)を著した。

曹操が「司空(しくう)」だったとき(196~208年)尹氏を側室に迎え、その連れ子の何晏も引き取り養育する。曹操の家には当時、側室の杜氏(とし)の連れ子である阿蘇(あそ。秦朗〈しんろう〉)も暮らしており、何晏ともどもかわいがられた。

阿蘇は慎み深い性格だったが、何晏はまったく気兼ねせず、太子(たいし)の曹丕(そうひ)と同様の衣装を身に着けていた。このため曹丕は特に何晏を嫌い、姓やあざなでは呼ばず「養子」と呼んでいたという。

何晏は公主を娶りながらも道楽者だったので、曹丕の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には任用されなかった。226年に曹叡(そうえい)が帝位を継いだ後、何とか閑職に任ぜられるようになる。

のち曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)の初め、何晏は曹爽(そうそう)に迎合し「散騎侍郎(さんきじろう)」に起用され、「侍中(じちゅう)・尚書(しょうしょ)」に昇進。彼は公主を娶っているうえ、母の尹氏も宮中にいたことから「列侯(れっこう)」に封ぜられた。

何晏は自己愛が強く、いつも白粉を手放さず、歩くときにも自分の影を振り返って眺めるほどだったという。「尚書」となり官吏の任用をつかさどるようになると、昔から交際していた者たちを数多く抜てきした。

249年、司馬懿(しばい)がクーデターを発動。何晏は曹爽兄弟やほかの取り巻きたちとともに大逆不道の罪で処刑され、三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏末伝(ぎまつでん)』には、「何晏の妻の金郷公主は、実は何晏の同母妹だった」とあります。

これについて裴松之が、「『魏末伝』では何晏が同母妹を娶って妻にしたと言っているが、これは紳士たる者が口にするのも恥ずかしいことである」と述べたうえ、『三国志』(魏書・沛穆王林伝〈はいぼくおうりんでん〉)を調べ、沛王(曹林)は杜氏が生んだと指摘。

「何晏の母は尹氏であり、もし金郷公主が沛王(曹林)と同じ母(杜氏)から生まれたとすれば、どうして何晏と母が同じだと言えようか?」とまとめています。この指摘はごもっとも。『魏末伝』の撰者(せんじゃ)の勘違いでしょうね。

結論としては「何晏と金郷公主は同母兄妹ではない」ということになります。何晏(父は何進の息子、母は尹氏)、金郷公主(父は曹操、母は杜氏)。

事績だけを見るとダメっぽい何晏ながら、非常に個性的ではあります。そのナルシストぶりには気味の悪さを感ずる一方、ある種の滑稽さも感じました。

なお『魏末伝』には、何晏の息子が司馬懿に助命されたという記事もありました。

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