吾彦(ごげん) ※あざなは士則(しそく)

【姓名】 吾彦(ごげん) 【あざな】 士則(しそく)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。

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長江(ちょうこう)を流れ下る木くずを見て、晋軍(しんぐん)の動きに感づいたものの……

父母ともに不詳。

272年、呉の西陵督(せいりょうとく)の歩闡(ほせん)が城に立て籠もったまま反旗を翻し、晋へ使者を遣って降伏を申し入れる。

このとき吾彦は陸抗(りくこう)の命を受け、左奕(さえき)や蔡貢(さいこう)らとともに西陵へ討伐に向かう。この年のうちに陸抗は西陵城を陥落させ、歩闡の一族と主だった部将や軍吏らを処刑した。

280年、晋の司馬炎(しばえん)は呉への総攻撃を開始したが、これに先立ち、晋の龍驤将軍(りょうじょうしょうぐん)の王濬(おうしゅん)は、蜀(しょく)の地で軍船の建造を進めていた。

吾彦は、長江の上流から流れてきた木くずを拾うと、それを孫晧(そんこう)に差し出して言った。

「晋がわが呉の攻略をもくろんでいるに違いありません。すぐに建平(けんぺい)の守備兵を増強なさるべきです。建平さえ陥落しなければ、晋軍も長江を攻め下っては来ないでしょう」

だが、孫晧は進言を容れようとしなかった。その結果、呉軍は各地で大敗を喫し、この年の春には孫晧が全面降伏を申し入れ、ついに呉は滅亡した。

なお、その後の吾彦については(『三国志』には)記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く干宝(かんぽう)の『晋紀(しんき)』および『三国志』(呉書・陸遜伝〈りくそんでん〉)に付された「陸抗伝」によるもの。

「その後の吾彦については(『三国志』には)記事がない」と書きましたが、唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書(しんじょ)』には「吾彦伝」があります。

ですが、そちらを吟味できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればと思います。

『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、吾彦に関する記事が相当量あるようです。

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